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診断基準に無い物は・・・

果たして、「治療できる」と掲載していいのか?
あたかも、「そういう症状がある」という誤解を与える記載はいいのか?

まぁ、何度となくつついてますが、「HSPうつ」とか、ホントね。

HSPという言葉については、まだ心理学上の概念の段階。
なので、精神医学でも謳われて無ければ、それを判定するための基準はありません。
これは、日本”だけ”の話ではなく、DSMというアメリカの基準だったり、ICDという国際的な基準でも同じくです。

そもそもHSPって、アメリカ発なのでは?と。細かい話も。

それなのに、まだまだそういうのがネットで見られるのは、どういうことだってばよ?

という、再度の問題提起というか。
重箱の隅を楊枝でほじくるというか。

そんな感じです。


うつ病と診断された身として

個人としての深刻さ、複雑さの部分には、物心ついた4歳頃から既に、

「周囲の大人どころか、親ですら同じレベルでの受け取り、感じとり、気づきが出来ない」

でも、それに対して私は気づいてしまってる。

というか、気付くというより見聞きするだけの時点でも、「現実の深い所を見つめすぎ」とカウンセリングで指摘されはするも、そこが個人としての”幼い頃からの当たり前、普通というレベル”

こういう部分は、確かに関りはあります。
うん。

でも、昭和生まれだし、当時はHSPという言葉どころか、過敏性腸症候群というのも無かったので。

気づき過ぎてる部分に対しては、周囲どころか「親ですら当たり前に否定してくる」

という、親を含めた大人たちのケアが無い事に端を発してます

同級とか同世代も、子供の頃から、

「周囲の大人以上に大人じゃん」

とはいう物の。都合が悪くなると、感情的になって抑え込みに来る=感情をぶつけられるが故の、ストレスや、精神的、心理的な負荷

気づき過ぎる、感じすぎるからではなく。

そこに対しての周囲の反応が、個人としての病みの原因や理由にあります。

昭和うまれで、言葉がかかったとはいえ。

言葉が無かったので定かではない。でも、可能性としては否めない。だからこその、深刻かつ複雑という指摘もされる。

それが実情だったりもします。そして、

加えて言えば「それでも自分の普通は敢えて捻じ曲げてでも、無かった事にする。」

周囲が感情をもって否定するからこその、”悪影響”は否めません。

それこそ、個人として”多様性”とか、”皆違って皆良い”なんてのは鼻で笑ってしまう程、です。

私「個人差って知ってる?」

周囲「知ってる」

私「なら、私が見せる物も個人差という個人が見せる違いだよね?」

周囲「お前のは普通じゃない、だから有り得ない」

私「その、普通じゃないだなんだの根拠は?」

周囲「自分と違う。自分達と違う。お前は少数派になる」

はて?これは一体どういう事でしょう・・・。というのは、今でも嫌でも発生します。

個人差という言葉を知ってる。違いも確認してる。
でも、普通じゃないからありえない。そんなはずはない。

こういう部分は、個人としての能力の部分も同じくです。
周囲より出来てる

その出来てると判断してる根拠という部分が、周囲よりそこが優れてる、目に見えて違いとして行動にでてる。

これだけしか無いんですよ。

個人として、どのような能力を有してるのか?
という部分には気づけない、わからないというので、実情を説明しもすれば、相手側から「何故出来てしまうのか?」という問いすらあります。

こういう部分も、有り得ない、と。

結局、個人としてはそっとしておいて欲しいのに、勝手に触れてきた揚げ句、ありえない、おかしい、ふつうじゃないと否定をぶつける。

下手すると「相手が勝手に怒りだす、怒りの感情と言葉をぶつけてくる」

これが日常なので、そりゃ精神病みますって・・・という感じです。

そして、自分を認めて欲しい、というのではなく。

個人として様々な違いを持つというのは、人間誰しも同じ。
なので、いい加減、そっとしておいて欲しい。それだけなんですよね。

あと、これだけは言っておきます。

評価って「見定め」が出来ない事には、評価出来てる事にならないので。

そういう、ね。
評価も”出来てるつもり”なだけの人が多すぎるので、正直困ってしまうんですよ。

違いとして認めてるのに、そんな違いは大多数の人が無理だから。

だからお前の言い分認めないって、評価ではなく、否定でしかないですよ・・・。


HSPうつ?はぁ?

正直これはもう、簡潔に言えば、

日本の精神医学どころか、海外や国際としての基準にもそんな症状ないから。

病院や医師がそういう基準を蔑ろにするのって、どういう事ですか?

いい加減、止めにしません?
こういう、人の弱みに悪い意味で付けこむみたいな真似は。

うん。

個人としては、そういう部分も関りはなくもないわけですが。

ぶっちゃけ、自分だからこそ判断出来る、です。

ただでさえ気づきすぎるだけでなく、幼い頃から隠すとか出さないとかをやってきたわけです。

そして、そこが上手くできてるか?失敗してるか?

気付くのが自分しか居ないのが当たり前ですし。

だから、影響してるなら、自分で気付けるんですよ。

そして、気づいた結果はというと、

「それが全てじゃないので、HSPうつだとか、そんな事は言わない。言う人が居れば真っ向否定するしかない。」

もうね、敢えて狙って隠してみて。

その上で、臨床心理士の先生から「何を求めてるのかが掴めない」と。

あー、やっぱり隠せてしまうんだなぁ、という実験すらやってます。申し訳ないですけどね。

カウンセリングをする以前に、成人知能検査を実施してもらったり、少なからず小出しに話したりしてましたが、カウンセリングとして実施してもらうと、掴まれないんですよ。

成人知能検査においても、「今までに出会ったことがない」と。

検査の説明についても、1伝えればそこから2以上掴んでる様子だし、そうあるからか、私の方からの質問や説明もわかりやすかった。

だから検査がスムーズに進んで、想像以上に時間がかからなかった。

そういう評価も頂いてたにも拘らず。

カウンセリングでは、「私が伝えようとしてない」という部分には気づかれない、掴まれない、と。

成人知能検査は、発達障害を疑われての実施だったので、それこそ自然と「自分のありのままを出す」という状態になってました。

逆にカウンセリングでは、伝えたところで伝わらない。
その他大勢として、見ないタイプだから、と。
気のせい、気にし過ぎ、考えすぎと、誤解されてしまう。

ほんとね、こういう通院という部分でも。

客観視が強い、現実の深い所を見つめすぎ、そう言われるからか「滅多に居ないタイプ、凡その人とは違う」と言われるのに

その他大勢と違うから、それは気のせいだ、勘違いだ、と

こういう扱いになるんですよ。

ほんとね?

見分けられるんですか?
そもそも、症状としてHSPうつなんてないし、うつ病という症状の基準の中にもHSPなんて言葉はないはずです。

だからこそ、診断基準はない。そう語られる物なのに。

ほんとこう、いい加減とか、無責任をやってはいけないのでは?

そう思います。

とはいえ、病院には沢山の患者さんが来ますし、個人を意識するのは難しい物でもあると思います。

でも、普通にやりとりするだけで「その他大勢と違う」という判定は嫌でも出てくるんですよ。それこそ、医師や臨床心理士という側の方から。

そういう意味では、ここはもう限界というレベル、限界というラインという線引きも出来てしまう。

その限界の向こう側にいるからこそ、その他大勢とは違うと言われるわけですから、こちらからの主張を聞いてもらえないと、治療が治療になりゃしない・・・

そういう経験をしてる個人としては。

いやー、判別できないでしょう・・・としか、思えないという部分もあり。

それ以上に基準が無いというのは、どういう事なのか?を。

ちゃんと考えておくんなまし!

そう思います。


普通じゃないからこそ

凡その人がそうあるという、普通という概念。

それと比較すると普通じゃない部分は沢山抱えてます。

それこそ、「普通じゃないから」と否定を食らうのも当たり前とか、日常茶飯事レベルに発生する程、です。

そうなんですよ。

普通じゃないです。

相談上手とか、教え上手とかも、こちらからすれば見聞きするだけで簡単に掴めるからこそ、出来てるだけ。

見る聞くだけでも、得られる情報量が多いだけでなく、それを細かく砕くのも容易だし、言語化すらも簡単に出来てしまう。

だから、相談に乗ったら不思議と解決させてしまう、なんかおかしな人
そういう評価をもってしての、相談上手

いちいち意識しなくても、見る聞くが過ぎてる=自然体とか普通という個人の状態がそうさせる。

そして、それを普通じゃないと言われる。

そうなんですよ。
普通じゃないんです。

とはいえ、この普通じゃないというのは、他者からの評価、指摘というものでしかないわけです。

そりゃ個人差があるだけでなく、見る聞くが過ぎてるような体をもってないからこそ。

親、医師、教師、上司ほか多くの人から。

普通じゃない、滅多に居ない、会った事がない、と。

ほんとこうね?言われ続けてる身としては、何が何だか・・・というため息もでます。

普通じゃない、それどころか、そういう部分を活かせばいい評価をくれるのも周囲に居る人達なんですよ。

自分にとっては出来て当たり前、それが普通でしかない部分がそうなる。

向き合わなくていい時には、「普通じゃない、優れてる」と周囲は言いますし、向き合う必要が有ると「有り得ない、普通じゃない、おかしい」と否定しにかかる。

はいた唾は飲めないのよ?と。

遠まわしに言いもするんですよ。

ストレートにすると、怒るだけなので、敢えてことわざという、ね。

客観的に扱える表現をもって伝える。

で、知ってる、分かってると言いつつ、行動、言動ではそれが出来ない。

言うは易く行うは難し、とは正に・・・(´・ω・`)

こういうのも、散々経験してきてます。

疲れるとか、他人に振り回されるとか、ちゃんちゃらおかしいです。

寧ろ周囲の方が振り回されてます。
状況や状態、その時の感情や立ち位置から、ホイホイ言葉を変え、評価による上げ下げを好き勝手にやる。

だから疲れるのではなく、「面倒くさい」になってしまう。

そして、そうあるからこそ、

隠そうともすれば、自分から無かった事にしようと動く事すらある。

だって、受け止められないからこそ、感情任せになって、墓穴掘ってるわけです。
でも、そういう自分自身の言動行動を認めない。
そして、自分の言動行動を認めたくないからこそ、普通じゃないを理由にこちらに攻撃を加える。

こういう、ね。
気付く、感じとる部分が過ぎてると、行動心理なんかも言葉の並びや、発言の仕方、他色々から掴めもするんですよ。

そして、それを可能とするからこその、相談上手、教え上手、と。

周囲や他者に、利益がある行動になると、驚きを伴う事で評価が極端に跳ね上がる。
そういうことすらあります。

こういう部分も信じられないと言いつつ、その場や状況での私の行動や言動はどうだったか?を問えば。

沈黙で答えが返ってくる、ということも、ね。
結構あるある、だったりします。

個人として、ですけどね。


子供への焦点と、懸念

これから色々研究がなされるにしても、

ある程度のコミュニケーションが取れる=だからこそ、経験の深さがある

という部分には、注意して欲しいかな・・・と思います。

個人としては、親ですらも感情的になって、否定だ、抑え込みだというのを幼い頃から経験してきてます。

それに対して、様子を伺うのではなく。

様々に感じ取った部分から、客観的な判断として、自分で取捨選択をした上での、

「親や、大人の感情をこれ以上悪い方に向かわせない」

という、行動の選択を行ってました。

なので、親がどうこう以上に現状や現実に対しての対処という部分は相当に大きいです。

怖いからという部分以上に、「そうしないと、大人が落ち着いてくれなくて、お話することができないから」

なんですよ。

相当に過ぎてるんです。もう幼稚園児という時点でも。

それを本人が自覚できない感覚的という、感覚頼みの行動でとるわけですが、それが不思議と上手くいきます。

なので、下手すると「読まれる、掴まれる」という部分から、無難な行動、言動を取ってしまい、

実態が不明瞭になってしまう。

これは、そうあったからこそ言います。

大いに有り得る話です。

また、現実に向き合ったからこそ、という部分もあります。

だからこう、ポジティブとか、ネガティブというのも、相手側の判断と間違いなくズレるんですよ。

こういう部分は、判定や判断する側も「現実としての客観性」を同じレベルで維持できないと、と思います。即座に気付いて行動かえますから。
状況によりけりですけどね。

そういう意味では、ネガティブなのか?ポジティブなのか?という方向性には違和感や疑問、懸念を覚えます。

現実と向き合うと、一点からでの二極化ってそうそう出来た物じゃない、と思います。

なので、ネガティブか?ポジティブか?というのは、一概にそうだと言い切れない。

相手の受け取り、感じとり次第では、逆転も有り得るのも現実だと思いますし、そういう部分からの「大人からの強引な抑え込み」というのは嫌と言う程経験してます

だからこそ、「お話がしたい」と。
幼いながらに、お互いの妥協点を探すための「話し合い」を要求してました。
でも、受け止めてもらった事は、ゼロです。ゼロ。

子供のくせに、とか。
年齢的にそれは出来ないはず、とか。

そうやって大人たちが見下して相手をしてしまいます。
それこそ、無意識にそうなってしまってる、と。

幼稚園時点で気付いてたんですよ。
だから「これはもう、話し合いが出来る状態ではない」という判断に至る事で

聞き分けの良い子

聞き分けが良いのではなく。
大人たちの方が聞き分けが悪いので。

敢えてひっこんで、あたかも子供がいう事を聞いた、という状態を作って回避する。

だからこそ、ね。

ここで、私個人と母とのやり取りの話。

「親として守って来たつもりが、守られてたのは自分の方だった」

にも、繋がって来る、と。

死に際に後悔してしまう程、親より幼い頃から、

私の方が明らかに上だった。

親を伺って、親に合わせるだけではないです。

当時の環境や、そこからの、父、母の立場。
周囲からの余計な干渉。
その時その場ではなく、自分が生きる過程で見聞きして、気づいた部分も全て。

判断材料に含んで、判断してました。幼稚園の時点から。

なので、大抵の大人も、話を合わせられないんですよ。
そもそも、物心つく以前。

1歳の時点で、これはもう自分が妊娠していると、気付いてる事にしなければ。
「子供の行動が説明出来ない」
教えたわけでも言い聞かせたわけでもないのに。
だからこそ、おかしい、ありえない。
でも、そうとしか言えない・・・。
という事に気付いてた母ですら、成長に伴って「どのように成長したのか?」が抜け落ちてしまい。

普通の子、になってると、思い込んでしまった。

でもそれは、私の方が気づき過ぎるから、客観的な判断をもって「敢えて退く」を既にやり始めてたから、だったりします。

「相手は子供だから」

とんでもねー、油断だなぁ、おい?

なんですよ。そういう側に居る個人としては。
あくまで、個人として、です。

でもね。

観察とか、周囲を意識して見聞きしようという素振りが無いのに。

母「あんた、なんでそんな事きづいてるの?」

私「見えたから気づいたもん」

こういうやりとりも頻繁に発生するほどに、見えてる部分が普段からおかしい。

そういうのは見て取れてるはず、なんです。

でも、いざ話を聞くと過ぎてるから、と。
油断してからは、感情揺らされて、母も怒る事しかできなくなってました。


だからこそ、ね。
「親ですら敵」という判断を幼いからこそしてしまったわけです。

弟の我儘は聞いてもらえるのに。
私はそれ以前の状況説明すら聞いてもらえない。

「なんだ?この差は?」

うん。

正直、侮れないですし、子供だからこそ、ね。

逆にそうあらないからこその、本当に嘘をついてる。

これとの区別が出来ないと、失敗しますよ?

という部分から、ネガティブなのか?ポジティブなのか?とかも、何がどうあって、その子はそういう言動を取ってるのか?という突き詰めを上手くやれない事には。

難しさは過分にある。

そう思います。

そして、ね。

こういう事を言えるようになったのも、今のブームがあるからこそ、という部分もあります。

自分自身が寧ろ信じられず、敢えて無かった事にするほど。

それ程頻繁に「普通じゃない、おかしい、ありえない」って物凄く言われて来てます。

それが、以前から知ってたとは言え、おかしなブームがあるので、言葉の意味や実際を知ろうと様々に触れた結果。

少しに詰める事ができたなぁ、と。

自分自身すらもようやく受け入れられるようになったほど、です。

だからこそ、様々に危惧や懸念を感じる機会も増えてきましたし、

「こんな経験や、辛い思いをするのは、自分だけに留めておきたい」

そうある子たちが適正に評価されるだけでなく。
親だけではなく、大人たちが。
「子供だから」と侮らず、向き合い寄り添って欲しい、と。

そうい事を、ね。

問題提起だったり、個人の経験からの訴えとして。

どうしても、声をあげてしまうんですよ。

まーじで、きついし、生きづらいどころか。

超絶な程に、人間不信ですし、諦めもあれば、便利で楽になった事で人間なんて退化してるだろ?とか言ってしまう程。

ホントこう。

本当に子供を思うなら。

子供だ、親だ、大人だではなく。


いい加減、一人の人間として向き合わないといけないのでは?

そういう思いは、非常に強い、です!


あとがき

ふぅー。

正直、ね。

なんで、子供だけに目が向けられるん?とは思います。

個人としては、社会に出てからの方が落胆とか、絶望が強くなったほど、です。

正直、無意識の内に大人を怖がってしまうし、警戒心が強いです。
それこそ、猫みたいな感じ。

しかも、それを全然表に出さないので気づかれない。気づかれたとしても、

「子供がそこまで見えてる、気づけてるはずがない」

大人が無意識に漏らす侮りすら、気付いてしまいます。

だから、気づき過ぎる=気づかれない様な対処、安心を与えるというのは、必須事項だと思います。

でも、子供ばかりに目が向きすぎてて、そういう経験をしてる成長したい人が置き去りだと、ね。

子供からは、そういうの引き出せないと思います。

それこそ、敏感であるが故に。
「大人」という存在や立場に対しての防衛。その姿勢が普通の子供以上になりますから。

大人という傲りがあるからこそ、気付く事が出来ない。

日常の生活の中でも、黙ってるし、気にしてない様に振舞ってるようで、相当に把握して、情報を掴んでました。

ドラえもんとか、日本昔ばなしを見ながら、子供らしくない言動や反応、物語の深い部分の流れを掴んで言及してましたし、そこが、ね?

「あんた、子供なのに、そんな所を?」

細かい事を上げだすと、それこそ、キリが無くなる程に、子供らしくない姿を見せてはいたものの。

「子供のくせに」

でしたから、ね。

正直、ヤングケアラーとか、バランサーにもなりえますが、相当に幅広く、そして深く現実に触れてるからこその、

状況把握と判断

それをもって、そういう言葉で括れない部分での、「自分だからそうする」という自分らしくあるが故の、判断です。

と言う程に、気づき過ぎるからこそ、区別や分別すらも細かくなります。

個人としても、今更ながら虐待だったなぁ、とは思えども。

その当時の環境では、そうやって生き抜くのがベターだった。

という相反する部分はあるんですよ。

ただただ影響を受けるだけでなく、受けるにしても、与える側が無いと成立しない。

受ける側だからこそ、見える物、気づける物もあるので、そういう人を探して、様々に話を聞いて、判断材料を増やす。

これをしない事には、到底計りきれない。

それ程に見る、聞く、臭うだけでなく。
感じるとか、感覚的という部分は体の機能としてもあるものなので。
正しい間違いではなく、そう言うのを除いた「客観的な判断」が必要です。

そういう、客観的な判断という部分も、気づけてる幅や深さが想像以上になってもいるので、話も噛み合わなくなるんですよ。

もう、ほんとね。

なんですかこれは?呪いですか?と。
呪いというオカルティズムに偏った物すら、現実として肯定しかねない程。

未だに、過ぎてるとか、能力が高いと言われつつ、ただただ「そういう人に会った事が無い」と言うわれるばかり

そして、個人の実際は問われたから答えたのに。

問いかけてきた側が疑問を持ったうえでの問いなのに。

自分の想定以上だから「おかしい、ありえない」という否定をされる。

学校のテストで、自分の思ってた解答と違うから、その答えは間違いだ!

とか、言わないでしょ・・・。


だからこそ、言うんですよ。

これは何ですか?呪いですかね?

と。

そして、そうあるからこそ、精神どころか、気力も削れてしまい、動くに動けない。

動いてしまえば体が拒否してしまう程に、即座に胃がせり上がって、おええええとえずいてしまい、動けなくなる。

自分が受け入れられても、一人で生きていくわけじゃないですから

少なからず、何がどうあれ、過ぎてるから、その分ストレスやダメージも普通以上にうけてるのだ、と。

周囲も、そうしてくれない事には休めません。

休んでる事に、異を唱えられ、動く事を突きつけられますし、それすらも体が拒否して戻しそうになるほど。

そして、そうあるから、せめて見た目だけでも・・・と動いてしまい。
ストレスや負荷を受ければ、ダメージにもなり、逆に癒せなくなる。

患者としても、そういう人は居ないからとか。
最悪として「貴方みたいな患者はうちには居ない、他所に行ってくれ」とかいわれたほど、です。

はぁー。

凄いですねぇ。

大学とか大学院行って、医師の資格とったのでは?

なのに、客観的な話ではなく、個人の経験で計ってしまい、見誤るって、ねぇ?

申し訳ないけど、過去においてはそう言う不信から、病院にすら行けなくなったくらいです。

なんだよ、これ。

その他大勢と違う、って、さぁ?

何がどうあれ、個人は個人じゃなくて?

ほんともう、たすけてくれえええええ!とすら叫べないんですよ。

助けに来てくれた人が、相手出来る様なレベルじゃないので。良くも悪くも、ね。

なので、知ってもらう事から始めようにも、違う個人なのに、相手の普通で計られるばかりって、

もう嫌だあああああああああああああああああああああああああああ!!!

げふん。

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