見出し画像

書くリハビリ

個人として、何でこんなに同じような事を?という。

自分自身も疑問を持ってるという部分から、何故そうなってしまうのか?を考えてみました。

まぁ、色々理由はあるのですが。

どうにもこうにも、根深い。

自分自身でそういう受け入れが出来るようになっただけでなく、精神科に通院しててもそう言われる。

そういう根深さから、自分自身の中でヘドロどころか、凝り固まってカッチカチになってしまってるので、削ってだしてるんだろうな、と。

何度も同じような事を言うのは。

何度と無く同じことを思わされるような、現実もあるわけで。

それが、その根深さと重なるようなら。

何度、同じこと書いても良いんじゃないかなぁ?と。

辛い辛いと何度も言うより、何が辛いのか?を文字にしてみると、視認という強い影響力を持つ認識の仕方から、

ああ、これだけ自分は苦しんでたんだな、と。

気付けるとも思うんですよね。


ネット上に投稿するということ

確かに、リスクもあるんですよ。

でも、リスクを取るか、自分自身の言いたいことを取るか、は自分自身で判断するしか無いんですよね。

その上で、完璧は無理でも、配慮も忘れずに。

言葉の使い方も、そういうつもりはない、とはいえ、下手に使えば罪になるものもあります。

親しい間柄だから、冗談として言えるようなことでも、下手すれば脅迫罪になったりしますしね。

なので、注意点というのは、あるにはあります。また、そこへの配慮というのも意識する必要はあるでしょう。

そして、これも、どこまでやるか?のさじ加減というのがあります。

こういう部分に対して、個人としては、今のようにもう即座に体の不調として、えずきや痛みになるまでは、敢えて我慢するという形にしてましたが。

もう無理、と。

なので、やり過ぎ無いように注意しつつも、文字化して出すしか無いよね、と言う感じで。

ネットに上げるからこその、リスクも承知しつつ、一応の配慮というのも意識しつつ。

記事化していくのはアリだと思うし、それが重複するような内容でも良いと思います。

そもそも。

メディアだって、同じような事を、今日はこういう話があったみたいに色々するじゃないですか。政治だったり、今なら感染症だったり、と。

そういう、大衆向けで影響力が個人よりは強い所がやってるんです。

なら、影響力が小さい個人なら、余程やりすぎなければ、同じくやって良いと思うんですよね。


何故、ここで書いてるのか?

あくまで、個人的な理由として、一つは感受性が絡む問題があります。

見る、聞く、感じるのレベルが違いすぎてて、ありえない、という否定を物凄く受けるんですよ。

この辺は、相談上手と言われる裏。そうあるからこそのデメリットになってます。

同じレベルの人に会ったこと無くて、相談したほうが寧ろ傷つくと言う理由から、相談できない状態も、幼い頃から変わらずなんですね。

この、相談って乗る側としては受容と共感というのがあるわけですが。

乗ってもらう側としては、それをもって自分が安心できるか、否か?というのはあると思います。

んで、問題は言語化とか、知能検査で言われた数値化出来ない言語の扱いの部分。

相談云々ではなくとも、付け焼き刃ではダメと、個人として言うのもこういう部分が絡んでます。

受容と共感も、させる相手が抜きん出てるようだと、どうしても付け焼き刃になるんですよ。失礼な言い方かもしれませんけど。

安心できるどころか、話を聞いた上で何故今そういう事言ったんですか?って問い返すしかない、って事が多いです。

相談することで、疑念や疑問を抱かされてしまうんですよね。

相談だろうが、なんだろうが、言葉を扱うというのは、様々な下地がありますし、そこには思考や意識、意思、意図という部分だったり、それを形成する経験や、その経験を積んだ環境、と。

その中で、何をどう感じ取った、何をどう受け取った、どういう影響を受けたと言う部分が、どうしても出てきてしまう。

それが、感受性という、ね。

話を聞いてくれるというから、聞いてもらったら。

何故、そういう事を話すのか?ではなく、それに対して私はこう言いたいをやられすぎて傷口に塩を塗られる、と。

言いたいことを言うって、場合によっては、土台が違う人に、違う土台をぶつけてるだけにしかならず、そこから、衝突だったり、不快感だったり、心の傷だったり、と。

そういう、メカニズムっていうんですかね。

やっぱり、あるんですよ。

それに対して、気づけてない人に、気づけてる人が相談しても意味がないどころか、寧ろ自分が無駄に傷ついてしまいかねない。

なので、こういう自分だからこそ、自分として記事を掲載すると言う場を利用して、表に出して自分で目で見て・・・。

そのために、ココで書いてるという記事もあります。

全部ではないですけどね。


どうにも行き詰まった結果として

書くリハビリ。

というね、自分にとっての自分なりのやり方として、完全ではなくとも形がみえてきたので、そういう事を言いだした、という流れがあるっていうんですかね。

良くも悪くも、自分自身だからこそ、と言う部分もあり。

とはいえ。

公開するのが怖いと感じるようなら、公開せず消せばいいので。

文字にしてしたためて、それを見て読んで気づく。

自分自身にしかできない、自分だからこその気づきが生まれるかも知れません。

うん。

だから、こういう事をやってみる、とは言わないです。

というのも、読んだ上で自分で気づいて、やってみようと思えなければ、効果は薄いとも思います。

今回はまぁ、書くリハビリとしてますが。

個人として、なんとなく会話口調になってたりするのは、見て読んでした上で、考えたり、感じたりする、という効果を狙ってたりします。

また、そういう部分から、~~と思います、~~~と思うんですよ、と。

あくまで個人はこう思ってますよ、という書き方にしかしてないんですね。

神様じゃないし、そんな、ねぇ?

正しい間違いなんて、言えるほどの人でもないですから。

なので、断言で終わるような書き方はしないんです。

自分が見た聞いた知った程度だと、まだまだ世界は広すぎて追いつけないですから。

言い換えれば、自分よりできる人がいる、それが人の世の常。

かといって、個人が何も言えないだと、流石に厳しいので、ね?

個人としてはこうですよ、から。

何かを感じ取ってもらえて、考えてもらえたら良いなぁと言う感じです。

と、話がそれましたが。

兎に角まぁ、様々に言う言葉がありますが、自然体レベルが既に他者と比較すると見えすぎてる=感受性が高いと言われる所以。

そういうタイプなので、ね。

不特定多数が見るネットである、というリスクと。

アカウントを取得した上で、自由に記事化出来る場所だからという、自分の為。

それを、毎回のように秤にかけながら、ここで書くしかないなぁ。

だって、限界だもの。

ということで、毎回同じことを、書いてしまいがちという話から。

何故、記事を書くのか?みたいな所まで、触れてみました。

とはいえ、コレが全てでも無いので、まだ何かしら書くかも知れません。


あとがき

まぁ、ね。

余程でなければ、指摘されたらごめんなさいすればいいですし。

そもそも、気を遣う、配慮するというのも、どこからどこまでというのは、コレまた人によって違うんですよね。

なのでまぁ、自分でも疑問に思いつつ。

でも、どうしようもないほどに出てきてしまう。

何でこうなってしまってるのか?と、自分で色々掘り下げた結果、どうあろうが記事にしてしたためて良いんでないかな?と。

通院する上で、訪問看護で話を聞いてもらうという提案もされましたけど、ね。

聞いてもらったことになるように、私のほうが演じてしまう。

個人としては、どんな状況でも、あんたはどう思ってるの?と問われない限り、私はこう思うというのは言わないんですよ。

話をしてる側が何を言いたいのか?

その様子をみながら、疑念が生じれば、それを質問して聞き出す、例え話を使って状況を思い出させる。

これを割と当たり前としてやってますが、話を聞く、愚痴を聞くだけでもこんな感じです。

聞く側が、自分はこうを言うと、相手は疑問を感じたり、不安になったりします。

そうさせないための、受容と共感、と。

その状況での主役は、話を聞いてもらいたいほどに何かしらを抱えてる人、です。

聞く側の思いなんて、話を聞いてもらおうとする人側の中には無いですし、響かせるには、相当なものがないと響かないですし、下手すると傷口に塩、火に油にしかならないです。

それなのに、話を聞いたからと、あれが良い、コレが悪い、貴方のココはあーだこーだってのは。

話、聞けてないってことになります。

うん。

相手がアドバイスを求めても。

話した中での環境に置かれるのは相手だけですし、その中で解決のために動くのも相手だけ、です。

こういう部分を応用すれば、自分目線での気を遣えてる、配慮出来てるなんてのは、相手をみてねーなぁ、と。

気を遣ってもらったら、必ず感謝にはならないです。

寧ろ相手が気遣って、そういう事にして場を整える選択をしてる可能性もあります。

と。

まぁ、そんな感じで、書いてみることで、自分が抱えてるものを出して、リハビリになればいいかなぁ?

そんな感じです。

それでは。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?