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金属バットで殴られたい

たまに金属バットで後頭部を殴り飛ばして欲しくなる。
性壁ではない。逃避願望の一種としてだ。

大学時代、空気読めない事を言って沈黙が流れた時
新卒時代、連絡ミスを上司に報告しなければならない時
会計士事務所で、申告期限2日前のお客さんの資料(引越し用段ボールいっぱい)を渡された時
収録でやらかして、スタジオの空気がキンッキンに冷えた時
私は金属バットで殴って欲しかった。

よく「辛かったら逃げ出せばいい」なんて言われているが、人間が逃げ出せる範囲なんてたかが知れている。
インターネット社会になった事で、どこにいても他人と繋がれてしまう時代になってしまった。
仮に人から逃げ切れたとしても、自分が自分を逃してはくれないだろう。

だから金属バットで殴られたいのだ。
殴られるなら、赤の他人がいい。犯人には捕まって欲しくない。特定の個人を憎むのも疲れるからだ。
被害者として、自分を含む誰からも同情される形で逃げ出したい。
病院のベットでしばらく1人になりたい。

現代で最も心安らぐ立場は明るみにでた被害者だ。
Twitterなどでは毎日「被害者椅子取りゲーム」めいたものが繰り広げられている。職場がブラックだとか夫がひどいとか。
みんな逃げ出したいのだな、と思いながら眺めている。
慰めてもらえるのは嬉しい。あと被害者ってなんか善良そうだし。

時代の閉塞感

心理的な閉塞感は、未来が閉ざされたと思った時に感じるものだ

高度経済成長の真っ只中の1960年代にも閉塞感はあった。

1960年代は「会社人間」が大量生産された時代だった。
1959年に雇用者つまりサラリーマンは全労働人口の半数を超えた。
農家の若者が都会に夢を見て田舎から東京へ移動する、民族大移動が起こり、東京の人口は一気に膨れ上がる。
これが以前の投稿でも触れた、エネルギー問題の一因でもある。


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しかしそんな若者たちが皆夢見たような仕事に就けるとは限らなかった。
大企業に就職できたものはまだ運が良いが、中小企業の労働環境は上記を逸していた。
『高度成長 日本を変えた六〇〇〇日』(吉川 洋)には、とある集団就職者の話が掲載されている。朝6時の先輩たちの名炊きから始まり、質素な食事・サービス残業・劣悪な労働環境。都会に夢を見る暇もない。
事実1964年の中学新規学卒離職者数は社員数500名以上の大企業が10,800人であったのに対し、100〜499名の会社はその20,900人となっている。
高度成長に浮かれるこの時代の人々からすれば、それはまだ小さな歪でしかなかったのかも知れないが。
最近はよく問題視されている、日本の労働環境の土台が築かれたのもこの時代だった。

現在日本には、高度経済成長期と同様に、大きな変化が訪れている。
インターネット社会にコロナ禍が拍車をかけ、新しい技術進歩・浸透は加速し、貧富の差は拡大。
続々と成功し、未来を切り開いていく人の影で、職を追われた人が疲れ果て未来に絶望している。

早すぎる変化はそれによって発生する歪みも大きくする。
ダーウィンの進化論では「激しい変化に対応できたものが生き残る」などと言われていた。では対応できなかった者たちは滅びて良いのか?見向きする価値すら無いのか?
初期の怪獣特撮はそういったマイノリティーの視点から制作された作品が多い。

「あけてくれ」

私がこの記事を執筆するきっかけとなった、1960年代の閉塞感を感じ取れる作品がある。

『ウルトラQ』幻の最終話「あけてくれ」だ。

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この話は全話中、唯一本放送されていない(再放送では放送)
あくまで子供に向けて話が作られてきたシリーズ中、唯一大人向けに制作されている。

疲れた人を異世界に運ぶ、空飛ぶ列車の話だ。

ドライブにでかけた淳と由利子の二人は、途中の路上で横たわる男をひろった。その男、沢村正吉は意識をとりもどすと、いきなり「あけてくれ!降してくれ!」とあばれだした。
沢村の狂人めいた様子に不審をもった淳は、一の谷博士に彼をみてもらうことにした。さっそく一の谷博士の助手本多が、催眠術療法で沢村から事情を開きだしてみた。
それによると、沢村の乗っていた電車が突然上空へ向けて走りだし、それを知ってあわてて降りようとしたが、ドアが開かなかったというのだ。
もう一人、沢村と同じ症状の婦人が一の谷博士のところにおり、沢村と婦人のうわごとを合わせてみると、どうも同じ電車に来りあわせていたことになる。だが、淳たちは電車が空中を走るなど考えられないことだった。しかも、ふたりとも電車の中で推理作家、友野健二に合っていると云う。
友野の推理小説の中には「時間と空間を超越した世界」へとつぜん落ちこむと云う人間喪失の、謎めいたものが多かった。
そこで由利子たちは友野をたずねて、こんどの問題をさぐろうと考えた。
しかし、家政婦松代の話によると、当の友野も一年前ほどから失踪していて、どこからか原稿が家へ送られてくるだけと云うのだった。
友野家をたずねた帰り道、友野の声とともに、淳たちの車の中に彼の原稿が発見され、その原稿には友野が発見した未知の別世界が描かれていた……。
                 「ウルトラQ・あらすじ集」より引用

面白いのがこの話、いわゆる「怪獣らしい怪獣」が登場しない。
ただの列車だ。あやしい列車が異世界に連れて行ってくれるのだ。

嫌らしい言い方をするなら、おっさん向け「白馬の王子様」。
逃避願望の可視化だ。

逃避の形としては、これ以上無いほど完璧に思える。
異世界に行ってしまえば煩わしい人間関係や仕事からは解放されるし。

しかしどうだろうか。
私個人としては、結局「逃げる」という選択は、どこまで行っても不毛なのではないかと思っている。

「逃走」に価値はあるのか?

逃げることに意味はあるのだろうか?

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上記の物語にしてもそうだ、
物語冒頭で倒れていた男は、最終的に乗せてくれと叫びながら電車を追いかける。
だが、もし仮にまた電車に乗れたとしても、彼は多分、後悔するんじゃないだろうか。
物語冒頭で、妻や娘の姿を思い出し、乗車を拒否した「前科」がある。
精神的な疲れなんて休めば回復する。

結局、生物的に死にでもしない限り、どこに逃げても自分自身はセットで付いてくる。自己批判だとか反省だとか、そんな感情とは一生付き合っていくしかない。

ただ逆に、「逃走を試みる事」そのものには価値があるのかも知れない。
戦略的撤退といっても良い。
体制を立て直すための敗北確定の不毛な抵抗だ。
もし、逃げ切れてしまうとしたら、そちらの方が問題だ。
その機会が永遠に失われた事を意味する。人生における損失だ。

どうせ逃げ切ることができないのなら、損失はないに等しい。
ならば罪悪感なく軽はずみに「逃げる」を選択をしてしまっても良いのでは無いだろうか。

ネガティブに前向きな詭弁である。

何かをいっている風で、実際のところ何も言っていない風になってしまった。金属バットで殴られたい。そんなところで、今回は文章の結論から「逃げる」選択をしたいと思う。

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