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文章が幼稚と言われたので本気出してみた。

文章の書き方には知性が出る。

ただ、「読んでもらえる文章」「伝わる文章」のために敢えて洗練された雰囲気を醸し出す必要はあるのか?

最近は敢えて難解漢字を避け、分かりやすい比喩表現を用いての表現に勤しんできた。繰り返すが、「敢えて」である。

私の文章は、「分かりやすい」「サクサク読める」と言ってもらえることが多くあるが、それは、そう感じてもらえるよう「心がけているから」であることに他ならない。努力している。読みやすくなるように文章をデザインしているからである。

先日、出版した書籍の感想として、「文章が幼稚であるため、もう少し校正した方が良い」との指摘があった。それを読み、私は軽く憤慨した。敢えてそのようなスタイルに書き直していることに対し、稚拙な印象を受けると言われてしまっては、私の努力が水の泡ではないか。

幼稚な文章に見えるのは、自分のことを幼稚に見せる工夫を施しているからである。その際には時には文章ルールを無視したり、若者言葉を入れ込むこともある。上から目線にならないよう、指導者のような雰囲気を排除できるよう、徹底的に編集をしていく。

「本だからこういう表現をしないといけない」などということよりも、読者が読みやすく、且つ読み物として笑えることが何よりも大切だと考えているからだ。読者の満足度のためなら、私自身が少しくらい馬鹿キャラに設定したところで何の問題もない。

普段の読者様からしてみれば、本日のnoteの雰囲気は幾分いつもと異なるかと思う。一言で言えば「重い」そして「固い」はずだ。これは実験であり、否定的なコメントという名の挑発に乗っかってしまった私からの答えということになる。

幼稚と言われた私の文章がどうやって生まれたか、そんな話をしたい。

現代人は、忙しい。
現代人は、時間がない。
そんなストレスフルな状況の中、少しでも時間を作ってくれた読者への感謝の意を伝えるとしたら、それはただ「いかに楽に読めるか」ということに労力を費やすことしか思いつかなかったのである。

読者の皆様に問いたい。普段のnoteの今回のnote、どちらがあなたのお好みに合致するであろうか。どちらが私のキャラクターと相違ないだろうか。

書こうと思えば、私は何者にもなれると思っている。届ける人の属性によって書く内容を大幅に変えることもできると思う。

自分の表現したいことが伝わらないこと、伝わり切らないことに対してモヤモヤすることは多い。
だが、普段温厚な私がこれだけの怒りや悔しさを感じているということは、私自身自分の文章に納得いっていない部分もあるのだろうか、と思考が止まらないのである。

『ベストセラー作家になる』これが私の夢です。40歳までに形にします。もし、「エッセイ、よかった!」「頑張れ!moon!」と思っていただけたら、温かなサポートをお願いします!有名になって「あの時サポートしたんだ!」と思ってもらえるようにいたします✨(強気!笑)