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【エッセイ】父の背広から薫る、東京の匂い


0歳から18歳まで、私は青森県で育った。

父は東京で単身赴任。
母と姉と弟、そしてそれぞれ脳梗塞による身体障害で杖をついて歩く祖父母と、私は本州の端っこの県で暮らした。

父が東京で働いていること、実は生まれが東京の武蔵野市であることが、小さな私の自慢。
自分は田舎娘じゃない、東京生まれのおしゃれな都会っ子なんだと、心の何処かで威張っていた。

修学旅行で待望の渋谷109デビュー。
小遣いを叩いてローズファンファンやセシルマクビーのショ袋を手にいれ、ボロボロになるまで使い古していた、生粋の田舎っこ。
南部弁の話者に囲まれ、「冷たい」を「しゃっこい」と口にしている生娘が、おかしい話だ。


月に一度、父は東京から私たち家族が待つ青森に帰ってきてくれた。
仕事を終えたその足で、緑色に輝く東北新幹線に乗って帰ってくる。
だから金曜の夜、ガラガラと玄関の引き戸を開けてただいまと笑顔を見せる父は、決まってスーツ姿だった。

おかえりと駆け寄り父に抱きつくと、決まってあの匂いがする。
高温多湿な空気の中に、人の吐息、飲食店から漏れ出る熱気、路面店から解き放たれるフレグランスの香り、野良猫やカラス、鳩、いろんなものが混ざり合って出来上がる、混沌とした匂い。

あの場所の片鱗をいつも父が連れてきて、私の鼻先を刺激する。

「私もいつか、東京に移り住んでやるんだ。」
匂いを吸い込むたび、東京への憧れを膨らませた。




高校2年の夏、英語が得意だから、なんて安直な理由で東京のとある国立大を志望校に決めた。
母に懇願し、オープンキャンパスの時期でもないのに新幹線のチケットを買ってもらって大学を見に行ったけれど、今思えばそれもただ東京に行く口実だったのかもしれない。

新幹線を降りた瞬間、響き渡る構内アナウンスや人々の雑踏とともにもわっと広がるあの匂いが、私を出迎えた。
父の背広越しじゃなく、直接吸い込む東京の匂い。
決してかぐわしいものではないのに、うっとりと目を閉じ、深呼吸をした。


父と合流して、大学に到着。
夏休みシーズンだから学内には生徒も教授も誰もいなくて、シーンとしたキャンパスをただふらつく。
イメージとは程遠い、初めての学校見学。

正門からすぐに広がるアーチ状の中央広場や、8階まで吹き抜けで天井の窓からいっぱいに差し込む日光。
教室内に備え付けてあるデスクや、キャスター付きの椅子ですら私にとっては見知らぬ世界。

それでもここが自分が将来学び、青春を刻む場所なのだと想像しては胸を高揚させ、そう未来は決定づけられているのだと錯覚した。


勝手に思い描く自分の未来に心酔したまま乗った、帰りの中央線快速列車。
中野から新宿へ向かうときの車窓から望んだ新宿の高層ビル群は、夕焼けを反射してオレンジ色に光っていて。

隣町のイオンモールに向かう市バスや、草はらや田んぼをかき分けて高校のある市に向かう2両編成私鉄の車窓も、こんな景色を見せてはくれなかった。

「一体どれだけの人がこの街で日常を営んでいるのだろう。」
「どれだけの人の憧れと野心が、この街に取り込まれているのだろう。」

数年前まで田舎の澄んだ空気を吸って吐いていた若者たちも、今はこの東京の匂いを我が物顔でまとい暮らしているのだ。
そしてきっと、私もその一部に。

「この景色を手に入れてやる。」
「絶対東京で生きてやるんだ。」

雲まで届きそうなビルの群れに気押されそうになりながら、そう決意を固めたのを覚えている。




その後、なんとか私は志望校に合格。
晴れて東京での生活を手にし、上京。
気づけば16年の歳月が過ぎた。

東京はたくさんのことを私に教え、与えてくれた。

世界情勢や日本政治、仕事や家族の話まで、なんでも語り合える学友に出会った、府中。
穏やかで幸せな日々も、日夜泣き腫らした苦境もともに分かち合ってきた夫に出会った、高田馬場。
何にも替えられない宝物を授かり、母になる喜びを知った、船堀。

燃えるような憧れの東京は、いつしか私の日常にしっかりと組み込まれていったのだ。




現在私は、東京を離れ埼玉で暮らしている。
夫の転勤に伴い引っ越すことになったのだが、正直当初は心が揺れた。
父の背広を伝って滲んでくるあの匂いにしても、車窓から眺めたオレンジ色に輝く高層ビル群にしても、私にとってはどんな東京ですら圧倒的だったから。

コロナ禍以降、リモートワークが定着して、田舎へ移住をする人はたくさんいる。
空気も美味しくて物価も安く、自分の趣味の時間を満喫できるからと。

でも私は、たとえ時代の流れと逆を行くのだとしても、東京への憧れが尽きない。
数えきれないほどの人と、店と、金と、車と、汚れと、人生と、想いと、欲望と、渇きと、憧憬と、力が溢れている。
それが東京だから。


私は今も、東京の匂いに焦がれている。

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