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抜け落ちた時間と戯れる楽しさをくれた、私の病。

全身麻酔から覚めた時の光景は、今でも覚えている。滲んだ景色と、おぼつかない手、回らない口の感覚を、鮮やかに記憶している。麻酔の眠りへ落ちる時も、同じく鮮明に。普段の眠りとは全く違う、時間の一片がごそっと抜け落ちたような、何枚か無くしてしまった紙芝居のような、タイムリープした感覚。落ちる時と覚めた時の景色が違ったことも、この感覚に拍車をかけたのだろう。

神経質で心配性な私にしては、不思議とあまり怖くなかった。先生から初めて手術の、しかも全身麻酔の必要性を耳にした時を恐怖のピークとして、次第に当日へ向けて落ちついていった。先生の丁寧な説明と、自分なりの学び、そして先生への問いと議論。その過程に満足を得られたことが、安心という名の幹となり自分の中に根を下ろしてくれた気がする。

「この世の万物を、自分の言葉で説明できるように理解する」

今の私の軸となっている姿勢だ。もともと理屈っぽい素地の上で、さらに鋭化する訓練をひたすらにしてきたら、こうなった。先のケースで言えばお医者さんと患者である私の関係のように、餅は餅屋に任せてこちらはどんと構えておれば良いという態度もあるだろう。その方がたぶん、精神衛生は保たれやすい気がする。分かっているけど、私にはできない構えだ。安心は、知識と情報の上に成り立つ。物事のつじつまや因果関係が滑らかに繋がり、一切の欠落がない。そうでないものは、不愉快や不安でしかない。だから受け入れず、遠ざける。だいぶ極端な、息苦しい生き方だと自分でも思うし、それによって自分から切った人間関係が数多あることも事実。まあめんどくさいよね。自分を客観視してもそう思うのだから、まして他人の目にどう映るかは想像に難くない。

あのときベッドで目が覚めて抜け落ちた時間と脈絡は、私の意思とは無関係に受け入れざるを得ないものだったけれど、私が初めて、面白いと感じた欠落だったかもしれない。

そのお金で、美味しい珈琲をいただきます。 ありがとうございます。