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劣等を認めた人間は、強いと思うよ。

「20代も半ばを過ぎて、俺は何をやってるんだろう・・・」

南浦和行きの京浜東北線を待つプラットホームで、何度この言葉を漏らしたか知れない。背中越しに昇った朝日が自分の影を長く伸ばし、目の前のホームから奈落へ落としている。線路を2本越えた背向かいのホームが都心へ向かう通勤客で早くもいっぱいなのと対照的に、自分の横には誰も居ない。使いすぎてイガつく喉に、花冷えの寒さが刺さってくる。世間の年度は変わっても、その歯車とは全く噛み合わず空回る自分の毎日を、自分で選んだ道とは言え信じ切ることができないでいた。またも虚しく、年度を跨いだ。池のほとりの小さな箱はいつも格好の逃げ場だったけれど、そこからの帰路は毎回絶望まみれ。お日様に背を向け迎えるこうした朝は、まさにその象徴のようだった。

「おっ、この時間まで居るの、珍しいね。」
向かいの研究室の先輩がやってきて、唐突に声をかけてくる。
「今夜は彼女が飲み会だし、プログラムのバグも解決しておきたくて・・・」
「じゃあまだ忙しいか。」
「でも見通しが立った気がして、ホッとしてたところです。」
「じゃあ、行く?(笑)」
右手でマイクを持ち歌う仕草をし口角を上げて見せるが、終電まではもう1時間もない。それでも色々とやけくそだった私は、その誘いに易々と乗るのだった。立った気がした見通しなんて、何の根拠も自信もないのだし。
「行っちゃいますか(笑) ほか、誰か居ますかね。」

現実から逃げる時はだいたいいつも、こういう流れで始まった。大学は人生のモラトリアム。大学院は学部のアディショナルタイム。学部での就活に背を向け、甘っちょろい惰性での進学だった。それでも途中からは心を入れ換えて、努力しているつもりだった。その方向と大きさがあまり正しくなかったからこそ空虚な今がある現実にもまた、目を背けながら。

「標準年限を越えての在籍ですか・・・。これはもうほとんど授業料免除は通りませんよ?」

ごもっともだと思い、ぐうの音も出なかった。一縷の望みをかけて作ったが出番もなく終わった書類をシュレッダーにかけ、誰かがサーバーに作り置いていたコーヒーをすすった。酸化しきって苦いだけの、ただの茶色いお湯。飲まなきゃ良かった。

思えばここへ来てすぐの頃から、心を大きくへし折られていた。北関東の土くさい片田舎で育った私としては、地方大学からこの都心の学び舎へ進学できたことだけで満足してしまったのかもしれない。ここは、修士課程の1年次から国際学会で発表したり査読付き論文を出す学生がごろごろいる異世界だった。対して、国内学会での発表経験すら一度もない自分。日常会話は成立し、仲良くしてもらえたことは実にありがたかったけど、物事の視点の多彩さや問題点の切り分け方とか頭の回転数とか、学部1年生からここで純粋培養されてきた人たちは、そうした地頭の強さに別格の迫力があった。協力しつつもライバルとなるこの人たちに太刀打ちどころか追いつくことすら想像できず、焦りの中で軽く数年が過ぎていった。

最寄り駅で電車を降りたのは、彼女がいつも起床する1時間ほど前だった。ド平日だし、彼女は普通に仕事がある。起こさぬよう静かに静かに玄関を開け、まっすぐバスルームへ向かって熱めのシャワーをうなじに浴びる。少し頭が覚めた気もしたけれど、それがかえって現実を思い出させて、つらい。

畳敷きの2Kのアパート。湯を沸かして粉のカフェオレを溶かし、居間のちゃぶ台でテレビも付けずに黙々とすすっていると、奥のふすまが開いて起きてくる。朝帰りになってしまったことを謝ると、これから支度して仕事へ行くからゆっくり相手できないことを逆に謝られ、なんだかさらに申し訳なくなった。

(俺は、何をやっているんだろう。)

今日の自分には、講義もゼミもない。彼女の出勤を見送ってから床につき、起きた頃には笑っていいともが始まっていた。コンビニ弁当で腹を満たしてメールをチェックするけど、1通もない。ゆうべ解決の糸口が見えた気がしたプログラムのバグも、何だったかあまり思い出せない。満腹感が再び眠りの世界へと引きずり込んで、もう1時間半ほど惰眠をむさぼっていた。

玉ねぎがすっかり柔らかくなった一方でニンジンやじゃがいもにはまだ硬さの残る状態が、ルーの入れどきだ。最初に炒めた刻みにんにくと生姜の香りが、ルーのスパイスに負けない芳香を漂わせて食欲をそそる。弱火でゆっくり火を通してとろみがついたら、小さじ1杯の醤油を入れて完成。彼女からの退勤メールが来たタイミングで作り始めればちょうど良いことを、経験で知っている。そろそろ最寄り駅を下りたところだろう。火を止めていったん冷まし、もう一品。鶏肉と湯がいたブロッコリーをごま油で炒め、豆板醤と甜麺醤を入れてさらに火通ししたら、料理酒を大さじ1杯入れて蓋をし、蒸す。ごはんも炊き上がり、刻み野菜の端くれどもで作ったミネストローネも、スタンバイできている。国籍に一貫性のない、ずいぶんな組み合わせだなとキッチンを俯瞰していると、ちょうど玄関があいた。完璧。

私は、今の私を満たすため、そしてこれからの私を作り上げるために、今の道を選んだ。知の巨人たちに追い付くための最短経路を行きたくても、それが最短かどうかなんて走ってみないと分からない。どれくらい先にゴールがあるのか、いつになったら実を結ぶのかは分からないけど、実になるための根すらろくに張れず逃げてばかりの私には、花も咲くまい。やり直すなら、きっと今なんだろう。望めば僕は、カラカラと力無く空回りするいくつかの歯車を、噛み合わせることができるだろうか。垂れ流していたテレビから目を外し、食べかけの夕食を眺めながら問いかける。

「いつも美味しいよね。元気が出る。」

答えの出ない自問の闇から引きずりあげてもらえるような言葉をかけられて、自分の中でやっと、「何かをした」実感があった気がした。その夜は、いつもより長く抱いた。

そのお金で、美味しい珈琲をいただきます。 ありがとうございます。