美少女ゲームな百合を夢見る

水上由岐と高島ざくろの関係性に惹かれたことがあった。

断っておかなければならないのは、百合を摂取する目的で『素晴らしき日々~不連続存在~』を読むことは全く勧められないということだ。男性性の介在以前に、そこそこに暴力的であり、歪な人間観と人間関係によって構築された典型的な美少女ゲーム作品だ。

それはそれとして、衒学と認識論とカルト思想に興味を持ちつつ当作品を読み終えた者の中には、かの二人の関係性に惹かれた者もいたのではないかと思う。唯一無二とまで言って良いかは分からないが、美少女ゲームらしさを備え、なおかつ他では中々お目にかかれないカップリングだったと思う。(残念ながら、ネタバレと解釈の幅の点で、彼女らについて語ることは難しいのだが。)

私が美少女ゲームでしか見れない百合というものを考える時、彼女らはとても理想に近いところにいる。その一方で、美少女ゲームらしい、もっと様々な百合が見たいと思う自分がいる。そう思うのは、私がどうしようもなく欲深い消費者だからだろう。

ここで言う「美少女ゲームらしい」とはなんだろうか。

例えば、キャラクターの造型。抽象化と記号化を重ね、あらゆる現実の性から乖離した存在は、それはそれで魅力があるものだと思う。当然、ここには懐古と認知の歪みがある。それは社会的な理想とは程遠く、男性的な欲望の産物である。しかし同時に、独自の文脈を付与できるものだと思う。無垢・無知の表現であったり、極度の放埓であったり、神性であったり、概念的な美少女を描くのには、この上なく適していると思う。

例えば、ノベルという構造の徹底的な利用。平行世界の描写。メタ視点の介在。詐術的な演出。数多の前例があるのだから、それを百合というジャンルに再翻訳したものが見たいと思う。私は創作の新規性をあまり信じていないので、譬え二番煎じでも良い。また意図的な演出からは離れるが、機械的に分割されたシナリオが、ジャンルを横断する時の独特の雰囲気の変化をもたらすのも、ノベル媒体に特有のものであり、魅力を覚える。

例えば、理不尽なバッドエンド。どこかに需要があるという理由だけで存在し、ハッピーエンドの快楽を大きく削いだ、嗜虐的な作品。それが許される媒体であったというのは、性的欲求の充足を基盤とする産業構造に由来する面もあっただろうが、好きな部分だ。凡庸な理想よりは絢爛な不幸が見たい者にとって、それは理想的な媒体だ。

挙げてみると、『すばひび』が如何に(私の思う)美少女ゲームらしさによく当てはまるかが分かる。そして美少女ゲーム以外の媒体でこのような百合を得られる見込みの薄さというものに対して歯がゆい思いも生じる。

反転して見れば、これらの要素は私が既存の百合市場から見出すことを困難と思っているものだ。『マリア様がみてる』の半端なフォロー作品や、きらら的な楽天的世界観に基づいた百合はいくらでもある。一般小説を探せばリアルに寄り添った女性像と社会関係を得ることができる。それらも有難く楽しんでいるが、それでも満たされない欲求はあって、現状それを最も包括しているのが美少女ゲームという観念である、というのが実情に近い。

外界の変化に期待せず、求めるものを探すというのであれば、SF、幻想、伝奇といったジャンルを読み漁るしかないのだろうか……と思うと絶望感はある。私は作品を探すという行為が極めて不得手だ。

欲望を言語化するにしろ、適切な情報網にアクセスするにしろ、満たされない欲望を有形化するにしろ、技術(あるいは才能)は必要だ。つくづく、自分にはそのどれも無いのだと感じる。

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