備忘:少女とシミュレーション
頭に植え付けられ今も逃れられずにいる死への恐怖を克明に描くことに関して、私は『少女終末旅行』を越える作品を知らない。『シメジシミュレーション』もまた、自我の境界を異様な迫力で描いている。
既知の記号
少女と少女の出会い。溶け落ちる世界。メディアの自己言及。馴染み深い記号が並ぶ。しかし懐かしいという表現は不正確かもしれない。それらをつくみず氏のようにまとめ上げることをできる人間が同時代に何人いるのだろうか。個人的には既視感よりも、確かな実在性を感じる。かつて独りで見たもの、読んだもの、それらに触れた時の心が生々しく再現される。
近代文学は軒並み厭世と内省の塊であるが、昔の私にとって、図書室から借り受けたそれらは所詮他人事だった。厭世・内省という言葉の意味がそのままであっても、実態は時代によってどうしようもなく隔たれる。今でも、酒や性欲に溺れるかの主人公らを蔑んでいるのが正直なところだ。小説よりも、web上のゲームや漫画の方が身近な感情について饒舌に語っていたように思う。古代生物の絶滅や統一的な宇宙論、未解決の数学の問題は、手に届かないものの確かに"実在している"もので、死の恐れを齎す脅威だった。それらの脅威について直接語るフィクション作品は少ないが、意味で定義された距離空間上において、三島由紀夫や谷崎潤一郎よりも、任意のノベルゲームの方が近い位置にあったとは言えるはずだ。
世間でつくみず作品がどのように受容されているのかについては想像の域を出ないが、私にとって氏の作品は、幼少から付きまとう恐怖(fear)と畏怖(dread)について、他に無いような実在性で語ってくれるものだ。それは最初から実在して、創作の中から見出し続けてきた情動だから、新規性という観点で評価しようと思わない。Executionの部分、暴力的な直接性と静謐な言葉選びが強い印象を残している。
少女
性の拒絶と和解。百合という括りで言ってクリシェの部類だと認識せざるを得ない。いつか買った東方同人誌を思い出す。二人は口付けを交わし、距離を取り、世界は狂気に落ちて、二人はその渦中で和解する。古い同人誌を見返すと価値観の隔たりに色々(性規範をそこまで内面化する必要があるのか、もう少しどうにかならなかったのか)と思う。(結局、自分も趣味の小説で似たような筋を書いているので批判する立場に無いが。)境界の破れを恐れる感情自体の普遍性は認めるとして、それをどう表現するのが自然なのか、は考えたい問題として残る。
あるいは文学少女という一つのコロケーションがある。言うまでもなく、学術が歴史的に男性と結び付けられてきたが故の対比としての側面がある。枕元に数学書を置いて過ごしていると、女性数学者の少なさを日常的に感じる。作中の言及に目を向けたとして、太宰もニーチェも朔太郎も生憎と全員が男性だ。知の体系を憧れ恐れ畏れる体験すら満足に異性間で共有できていなくて、全ては片手落ち止まりなのかもしれないと悲観する。
少女無くして作品はどのように存在し、表現されるのだろうか。偏った思考は、これまでに出会ってきた架空の少女を思い出すばかりだ。細胞膜の破れにしたって、まどマギ4話の結界を想起するような有様。本質的な問いはジェンダーに縛られないものであるはずなのに、表現の代替が想像できない雁字搦め。
インターネットの気配
私の視界の中で、インターネットの創作は海産物と緩く結ばれている。以前好んでフォローしていた創作者は、蟹や人魚に何かしらの執着があるように見えた。また個人的に好む漫画を思い浮かべれば、美少女は水族館を訪れ、時に魚に変貌する。(漫画は店頭で出会うものでなくて、インターネットで出会うものだという前提。)
ウオウオフィッシュライフというミームがあった。サブカルなるものについて断片的な知識しか持っておらず、俯瞰的な言及を付け加えるつもりないが(創作物の固有性を信奉していない人間による空虚な予防線)、直感的に理解できる捉え方ではある。思索・没入・電子といったワードは空や山よりも海に近く、『シメジ~』もその近さを体現する創作の一つと呼べるのではないかと思う。
備忘
1巻か2巻が出たあたりで同作品の感想を書いていたのだがテキストを紛失してしまった。今はもう詳細まで思い出せない。
一つ言えるのは、自分が「紫色の都市」なる架空について当時から考えていたことだ――外部からの干渉によって生まれ、エネルギーを必要とせず稼働し続ける都市。住人は父性的に制御された夢の中の社会に閉じこもり、1%に満たない少数だけが”剥き身の他者”を享受する。――というよくある設定。
なけなしの脳細胞で夢や認知について考えていた時期は何だかんだで長く、その過程で生じた断片が今も清算されていない。
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