皇位継承者がいない…(後冷泉朝)
後冷泉天皇には皇子が生まれず、ヤバい!
でも、小一条院には、皇子がたくさんいる。
頭ではわかっているのですが、気付きがあるかもと、ちょっと書きだしてみました。庶子や女子は省いています。
後冷泉天皇が即位した翌年です。
この五年前の長久二年(1041年)八月、小一条院出家、源基平はこの年の十二月に元服しています。
後冷泉天皇はまだ22歳なので、皇子が生まれる可能性は十分あります。
尊仁親王が天皇に即位すると、藤原氏の外戚政治が成り立たなくなるので、藤原頼通はなんとしても、娘に皇子を生ませたいところです。
臣籍降下した兄
ところで、小一条院の子女は、東宮の座を譲る代わりに、特例で、三条天皇の養子として、親王宣下を得られるようになっていました。でも、源基平は、弟敦賢親王と同じ院の上を母とするのに、臣籍に下っています。
なぜなのか。時々のぼるので、私もちょっと考えてみました。
親王だと、政にあまり関われないから、発言権を得るため?
皇位継承権保有者が少なくないので、関白藤原頼通に睨まれないように、候補から外れた?
父小一条院の出家が関係?
図を見ると、もし、尊仁親王に何かあった場合、敦貞親王しかいないんですね。
その場合、小一条院がその後ろ盾になるのです。東宮を辞退した方が院政を行うことになったかも知れないのですね。
(ただし尊仁親王も即位すると、藤原氏の外戚ではないため、厄介)
新たな候補者と後ろ盾
小一条院は東宮を辞退して、30年の見識と経験もあるし、道長隆盛の時代に自身の劣勢を踏まえて、東宮の座を譲った賢明さがあったのであれば、ひょっとしたら、敦貞親王が帝位に就いたなら、院政ができた可能性もあるかも。
でも、敦賢王の祖父藤原頼宗なら、敦貞親王が立坊されるくらいなら、孫の敦賢王を立坊したいのではないでしょうか。
敦賢王が親王宣下されたのは、小一条院が亡くなった二年後です。
この年、天喜元年(1053年)六月十九日に、尊仁親王と藤原茂子の間には貞仁親王(白河天皇)が生まれています。
茂子は藤原公成の娘で、頼宗の弟の能信の養女。
敦賢王が親王になったのは、同じ年の十二月です。
この時点で、次の東宮候補が高松殿の子息たちの縁者なんて、思わぬ展開です。敦賢王の親王宣下は頼宗の意向だったかもしれないと、想像を逞しくしてしまいます。
逆に、もし、次世代の皇位継承候補者に心配がなかったなら、頼通へ忖度するためにも、兄基平が臣籍に下っているのだから、敦賢親王も臣下に下っていたかもしれなかったとも思います。
最後に
ここまでは、図を書き出して考えたことなので、資料を読み込まないで、こんな軽々しいことを書くのはよくないですね。
また、何か気付きがありましたら、今回の記事の内容も覆すかもしれません。
藤原実方のことを調べていたはずなのに、後三条天皇即位の裏側が気になって来たこの頃です。
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