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推しの話を聞け!5分だけでもいい

皆さんには、推しがいるだろうか。

アイドルや俳優、芸人、アナウンサーなどの芸能関係から、よく行くショップの店員や市役所の職員などの一般人。もちろん二次元も。

芸能人は省くとして、わたしには、過去にひとり、そして今ひとり、現在進行形で激烈に推している方がいる。

まず現在の推しの話をしよう。

邂逅は2年前の5月のことである。なんとなく幼馴染みとともに某駅に降り立ち、古着屋などをめぐって、さあディナーにしようと向かったのは幼馴染みがあてにしていたお店だったのだが、そこが休業していたのだ。てきとうにふらふら歩き、結局ぐるりと元いた場所に戻って、まるで光に向かって飛んでいく虫のように、あたたかな色の照明で彩られたそのお店に入っていった。

店員さんはふたりいた。ひとりは坂口健太郎に似ている。絶対に自分が坂口健太郎に似ていることを分かっているような感じだった。今のところ、この方との遭遇率がいちばん高い。

言うまでもなく、もうひとりが推しである。さっぱりとした黒髪で当時は眼鏡をかけており、ヒゲを生やしていた。いつでも明るくニコニコしていて声も大きい。

わたしはヒゲが好みではなく、これまでいちども良いなと思ったことがないのに、もう自分でもわけがわからないほど、その方に釘付けになった。

その日は空いていたカウンターに案内された。目の前では坂口健太郎が真剣なまなざしで料理をつくっていたが、もう推しが視界をちらつくものだから、目で追ってしまうしまともに話もできなくなるし(わたしと幼馴染みは最高に下品なので)。それはもはや恋では?と読んでいる方は思うかもしれないが、そのころわたしには好きな人がいたし、それはそれ、これはこれ、である。つまり〝推し〟だ。

このお店は駅から近い、おいしい、リーズナブル、店員さんたちが親切と、すっかり気に入り幾度となくこのお店に足を運んでいるのだが、同年の6月、友人とランチに行ったいちどしか推しと遭遇することができなかった。コの病により休業が続き、やっとディナーが再開したのが今年の3月である。

それなのにだ。昨日その友人と行ったら当然のように(そりゃあ当然だが)カウンターに立っていて、いらっしゃいませ!と輝く笑顔を向けてきたので、思わず「あっ!!!」と声を出してしまった。

推しが常駐するカウンターと推しがほとんど見えないテーブル、どちらにするか選ぶことができた。友人はたぶん、案内するその人がわたしの推しだということを覚えていた(あなた読んでるよね?覚えてましたか?)ので、ちょっぴり笑いながら選ばせてくれたが、幼馴染みと初めて来たときのことを思い、そして昨日は忙しい友人がつくってくれた大切な時間だったので、あふれくる何かをこらえながらテーブル席を選んだ。結局「見えないな、、」とつぶやきながら推しを気にしてしまっていたし、推しが近くに来るたびにカチンコチンになってしまったが、そこはどうか許してくれ。いちいちきらきらされるものだから、もう、こちらはひとたまりもないのだ。

帰り際、見送ってくれたもうひとりの店員さんに推しの名前を訊ねるか、数秒の間にものすごく迷った。しかしやめた。もし名前を知るのだとすれば、偶然知りたいと思ったのである。

素敵な偶然を欲してしまう理由は、過去の推しのことがあるかもしれない。

その彼は、わたしが数年前に空港で働いていたとき、最初の面接を担当した人事のうちのひとりである。

たった数十分で、とても素敵な方だという印象を持った。

見た目の清潔さや、ぴんと伸びた背筋もさることながら、声色や話すトーンがやわらかく落ち着いていた。ひとつひとつの言葉選びも丁寧だったが、渡した身分証をわたしに返す際の両手(その手もまた非常にきれいだったので仰天した)がかすかに震えていたのも、笑ったときに耳が赤くなるのも可愛らしくて好感が持てた。入社2〜3年目くらいだったと思う。とにかく、彼のその凛としているのにどこか和やかな雰囲気がすごく好きだった。

研修での出勤簿に、それはそれは丁寧に押された印鑑。思わず無機質な黒い枠ごと切り取りたくなるほどに、その名字がぴかぴかと光った。

下の名前を知ったのは、入ってから数ヶ月経ったころだった。店を閉め、報告書を作るために開いたメールボックス。開封済みの不要なメールは都度消していく決まりだったので、数日前に人事から届いていたメールを開くと、なんとその文末に推しの名前があるではないか。あのぴかぴかの名字、しかもその次に名前まで。

お喋りをしている後輩たちに悟られぬよう、声に出さず歓喜を爆発させた。心の中で何度も何度も繰り返した。それがまた、推しにふさわしい、とても美しい名前だったのだ。偶然知ったそれを、わたしはずっと、ほんとうにずっと宝物のように思っていた。

人事部があるのは別のターミナルで、会えることはほとんどなかった。しかしわたしは職場のサブマネージャーや先輩に「人事の〇〇さん」の話をしていたので、とても仲のよかった先輩が、新人のころの推しが載っている社報をどこからか持ってきて、わたしのロッカーにこっそり忍ばせるという、粋なことをしてくれたりした。ある日突然職場に現れたこともあったが、瞬時に硬直したわたしを察してその場に少しでも長く留めてくれたということもあった。

懇親会と称してホテルに会社のほぼ全員が集められるパーティーでは、もちろん真っ先に推しを探した。先輩や同僚たちはいかに効率よく料理を集めるか作戦を練っていたが、わたしはとにかく推しを探すことにすべてを懸けていたため、乾杯のときにノンアルコールのビールと間違えて普通のビールを飲んでしまった。それが初めてのビールだった。そしてなんと不思議なことに、そのあとのビンゴでたったひとりビール券1万円分が当たり、壇上に上がって挨拶までさせられた。ビール券は後日換金した。

どこの誰かも分からない人たちであふれ返った会場内ではなかなか推しを見つけられなかったのだけど、最後に人事の方々が帰っていく社員たちにお土産を手渡ししていて、その中に推しがいた。推しは背が高かったのですぐに気づけたのだ。わたしは興奮ですっかりパニックになっていたが、特に仲のよかった先輩たちに「やばい、どうしよう、絶対にあの人から欲しい、順番をどうにかしてなんとかちょうどあの人から手渡してもらえないだろうか」みたいなことをまくし立てるだけまくし立て、結局手前にいた女性の人事をさっとスルーしてまっすぐに推しのもとへ行き、「お疲れさまです」と目を見て言ってお土産を受け取った。先輩は後ろで爆笑していた。

お土産はどこのお店でも見たことのない形状の、謎に高級感のあるポッキーの箱だったのだが、もったいなくて数ヶ月は食べられなかった。

それ以来仕事で会うことはなかった。退職後だったか、出先から電車に乗ろうとしたとき、ホームに滑り込んできたその電車の中に推しがいたのを見た瞬間は、世界が止まったように思えた。目が合ったわけでも話したわけでもない。だけどそれでよかった。

それも、せつないほどに愛おしい偶然だった。

今いちど問う。皆さんには、推しがいるだろうか。

そのお店に行くのがもっと楽しみになるような。
仕事中、もし話せたらとドキドキするような。

それは恋のような苦しみを孕まず、ただわたしたちに笑顔と喜びと、儚いときめきをくれる。

もちろん異性でなく、同性だって推せる。まずご飯屋さんの推しのことをいちばんに書きたかったのと、それに付随して空港の推しを書き、あまりにも長くなったので泣く泣く今回は諦めたが、アパレルに勤める同性の推しもいる(彼女はわたしが1年越しに名乗った際、自分の名札の裏にわたしの名前を書いていた)。

「あの人に会いたい」と純粋に思えることはなんて幸せなのだろうと、そう考えるのと同時に、わたしも誰かにとってそんなふうにありたいと、あれたらと、心から思う夜。

いち個人の推しの話をここまで読んでくださりありがとう。

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