感性の声聞
寺と仏像に関する解剖書なるものを少し立ち読みしていた。
寺社仏閣、いや嘘、お寺はけっこう好きだ。同世代の標準よりは好きだと思う。単純にストイックな木造建築が好きなのもあるし、日本庭園も好きだから、特に好きなのは禅寺だ。三島由紀夫の『豊饒の海』シリーズで人生最大の読書体験を与えられた身なので、「暁の寺」ことワット・アルンほかの名寺を観るために、ひとりでタイ旅行もした。タイのお坊さんとタクシー相乗りして一緒に植物園を見て回った。
比較的そういうあたりに堅い(?)家で育ったというのもあるかもしれない。実家の敷地内に石の観音様が建っていた(水神様もあった)。観音様、菩提寺、お仏壇、お墓、これらはわりと心理的に身近なところにある。ひとり暮らしの家に「おりん」もある。ずっと欲しくて、この間ついにちっこいのを買った。これはまあ信心とかそういうのではなく、純粋におりんの音が好きですごく落ち着くので、買って朝晩や好きなときに鳴らしている。そういえば永平寺の宿泊参禅もしたことがある。たぶん仏教的な静寂、空気、建築、色彩、匂い、そういうものが純粋に好みなのだ。
仏教そのものにもそれなりに関心はあるつもり。でも正直なところ体系的、網羅的な知識はない。ゴータマ・シッダールタが生まれて上下左右に7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったとか、曹洞宗の題目は南無釈迦牟尼だとか、そういった断片的な知識しか持ち合わせていない。
冒頭の本。
仏教、開祖、寺院の建築、仏像や僧像の類について、たくさんのイラストを用いて解説、紹介している。
寺のコレコレういう建物の、ココはこういうものをしめしている。ふむ。
如来。菩薩。観音。明王。天。ふむ。ふむ。
興福寺の阿修羅像の、三面と六臂のそれぞれの意味。ふむ。ふむ。ふむ。
この寺の本尊である不動明王は、時の権力者だれそれに似せてつくられている。……はぁ。
この上皇に似せて作られた本尊の脇をアレとソレが固める、この並びは珍しいが、これは朝敵を討つという願いが込められたものである。……はぁ。。
芸術はいつの時代も勢力アピールや権力性を孕むものだとは承知している。寺社や大仏とはそうやって建つものだと、学校の授業でも教わった。
それでも、時の権力者が仏像に自己を仮託させているというピンポイントの知識はなんだか生々しい、と思う。人型だからだろうか。仏像に対する姿勢に、いやな感じのノイズが生じてくる。
そうやってあらためて考えると、自分は寺の建物にも庭園にも仏像仏具の類にも、フィーリングで対峙していたんだなと自覚する。あ、このお堂いいな、とか、この仏像好きだな、とかって、ぜんぶ雰囲気だ。絵画、アートに対してはここ数年でようやく「理屈とか背景知識とか関係ねぇ!“好み”という感覚はあるぜ」(なんか言い回しがジョジョみたい)(そうか?)という姿勢で臨めるようになった気がするけど、寺についてはずっとそういう風に見ていたんだな。芸術という括りで接していなかったから気付かなかった。
できればこのままの感覚で向き合っていたい。知識欲が刺激される一方で、そんな風に思ってしまう。今後とも感性だけで「あ、この佇まい、好き」とか思っていたい。でもその背景には当時のメチャクチャに個人的で俗で支配的な欲望が隠れていたりする。That fact makes me feel somewhat tired. 仏師はどんな心持ちで製作?着工?していたんだろうか。『風立ちぬ』の主人公みたいに、権力者の思惑はそれはそれとして、プロフェッショナルとして己の理想を追求していたのかな。
でも「感性だけで対峙したい(知識はいらない)」という姿勢はそれこそ政治的な危険性を孕んでいるとも思う。「なんとなくカッコいい」「カッコよければ良い」は、危険だ。そういうエモーションは利用される。自分がいま行なっているのは何の肯定なのか。何の礼賛なのか。意匠。意匠の肯定。技術力と熱意。技術力と熱意の礼賛。それ以上でも以下でもないということを、よくよく心に留めておくべきなのかも。
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