冬、『浮遊』、電車にて

鼻水がひどい。
今年イチ、いや今年度イチひどい。間違いない。
十中八九、大寒波のせいだ。寒暖差アレルギーとか低気圧とかそういうものの影響だ。昨晩は処方されているレボセチリジンを倍量(許容量限界)飲んだのに、就寝前にはズルズルしはじめていた。
今朝の電車内でもマスクの下で片鱗はあったけれど、出勤してからが本当にひどい。ひどい、以外にどう表現しよう?体液がすべて鼻水になって流れている。血液と脳味噌が溶け出している。鼻をかみすぎて鼻翼が痛い。本当にティッシュの摩擦で出血するんじゃないかこれ。だんだん意識がぼや〜っとしてきた。

ぼや〜っとしてきたといえば、遠野遥氏の『浮遊』、読了した。昨夜。遠野先生には個人的な共通項で親しみを覚えるところがあり、毎作品読んでいる。
『浮遊』についていまの心持ちを気取らず白状してしまうと、過去作のように理解や咀嚼…、いや遠野作品は理解や咀嚼よりも「体感」とか「直面」とか、そういう感覚の方が近いかもしれない、…とにかく一定程度の自分の深部まで招き入れることができなかった。達せていない、「悟り」に。

これまでの作品、とくに『破局』『教育』はある意味、毒の方向性や作用が把握しやすかった。たぶんピンとこない人には永遠にピンとこないし、嫌な人にとっては一生嫌な空気感なんだろうな、と思うけれど。
社会という実体を持たないものの暴力性と、その中で「健全」とされる規範を内面化した人間の狂気が描き出す、あたりまえにそこにあるディストピア。自分がはじめて読んだ遠野作品は『破局』だったのだけど、読了後のあの不可解さ、情緒の混乱状態は新体験だった。精神が宇宙空間に放り出されたような、知らない絶叫マシンに乗せられて動き出すのを抵抗できず待っているかのような、まるで一種のアトラクション。
今作はそれらとは、ちょっと面持ちが違う…だろうか?「社会」のグロテスクさ的なテーマは通底しているだろうが、比較的外側のレイヤーで、ちょっと趣向が変わっている…だろうか?
捉えきれていない自分がいる。読後、これまでのような体感は襲ってこず、でも「単純に面白くなかった」というのとも違う気がして、掴み損ねている。この本の正体を。俯瞰で見えなくて、戸惑っている。

…書いていて思ったけど、もしかして本当にこれが狙い?
昨日の読了直後、とりあえず「ふうかの色々な事情や状況、因果関係などの全貌は語られない「浮遊」状態(現実とはそういうものだし)と幽霊が浮遊していることをリンクさせているのだろう」とは思い至ったけれども、さらに、
・そもそもふうかの現状が非常にふわふわした覚束ない足場のもとにあるものであること。
・なんだか所在ない、読後、ことさらに強烈な感情を喚起させない(?、個人的には上述のとおりそのように感じた)ストーリー。
捉えがたい……何のように?幽霊のように。
俯瞰できない……FPSのゲームのように。

なんてこったい。
もしもこの考察が多少なりとも的を射ていたとしたら遠野先生スゴ〜〜と思うし、全然芯食ってなかったとしたら、自分が強火の信奉者みたいで怖い。

ふわふわしたいならどうぞ

(自分にとってゲームというものが遠すぎる(世の共通認識すら共有/納得できていないと感じることがある)ので、それによって見えていない何かはあるかもしれない。現実から離脱するもの、別の時間が流れているようなものという視座で捉えられないんだよな。本作でも常にテレビの前のふうかの存在を通して見ているという意識が強くあった。)

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