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親ガチャ

というタイトルだけ入れた本文白紙のnoteが、保存してあった。
さて、何を書こうと思ったのだったか。
思い出せることから書き出して、数分後の自分に期待する。

Twitterで見たんだよな、何か、ツイートを。私のiPhoneでは例のアプリはまだTwitterです。自動アップデート設定にしていないので。
ウチのTwitterはまだ、自分が本当はもう”X”であること、外の世界にはもうTwitterがないことに気付いていない。認識していないなら無いのと同じ。本当に?少なくともTwitter自身にとってはそのはずだわ。唯識論ってそういう感じで良い?
Living is easy with eyes closedってLenonのJohnも言ってた。

「親ガチャって言うけど、親の側からすれば子ガチャだよな」
みたいな趣旨のツイート(押し通す)だったと思う、端緒は。

そんで何がどうなったんだっけな。

「子ガチャは無いと思います。容姿や能力は遺伝するものなので」
的なリプがついてたな。
いやでもこれじゃない。引っかかったのは別のなにか、だったように思う。

………。

「親ガチャとか言ってる暇があったら努力したほうがいい」

これだ、こういう感じのやつだ。ユーレカ!

いや、別に一家言というほどのものもないんですけどね。
これは、この状態は、ただSNSでバズっていた言説にそのフィールド外でひっそりネッチョリ物申すっていうアレなんですけど。
↑噛んどいて言い訳とは往生際が悪い。過剰な自意識をささがきしたほうが良い。

まず「親ガチャ」も「子ガチャ」もあるんじゃないの、とは思うね。いや思わん?あるよ。実際あるよ。ない理屈が通らんでしょ、むしろ。経済、能力、容姿、精神性、格差だらけ差異だらけの世界で、ないわけがなくない?
ガチャ要素とは別に相性とか化学反応とかいうものもある。

Please allow me to repeat the sentense.
「親ガチャとか言ってる暇があったら努力したほうがいい(すればいいのに、だったかも)」

うーん。
親ガチャって言ってる人が努力してないという前提は何なのだろう。そりゃ努力は「した方が良い」ものだけど、それは官僚の親の元に生まれようが虐待親の元に生まれようが一緒じゃん。「よりいっそうの努力をしなければ覆らない」時点でそこにはあるじゃん、アンフェアネスが。なんでそこは蓋をした上で自助の問題にしちゃうの、しかもなんでそう言うとき上から目線なの。

あと努力ができる環境、努力が報われる環境も当たり前じゃないじゃん。そんなんはもう、上野千鶴子もマイケル・サンデルも言ってるわけじゃん。自分はともかく誰もが努力で何とかなる、なれると思うのはその人の世界がそうだったからなんだろうけど。それは何よりだけれども。

でも、そういう人が視野狭窄なのは前提として、わざわざそれを「言う」あたりに、それはそれで闇があるのかなと思わなくもない。
自分に対して発せられた言葉でもないのに殊更に冷笑的態度や侮蔑の態度を示したり、あるいは聞かれてもいないのにやたらと成功体験や自慢話を言ってまわったりする人、現実に間々いるけど、そういう人をずっと見ていると「この人は何に飢えてるんだろう、何でそんなに飢えてるんだろう」と思っちゃう。
人が語るときそこにあるものは「欠け」であり、承認欲求であり慟哭であり祈りだと思っている。この人は何でこのポイントに執着せずにはいられないんだろう。この人の何がそんなに刺激されたのだろう。
まあそんなの、考えたところで分からないんだけど。他人のことだから。

だし、このnoteは入れ子構造というわけです。私はどうして「『親ガチャ』という言葉を使う若者を、ただ努力しない理由がほしいだけの他責思考だと決めつけて自助の問題にする」見えないどこかの誰かに、物申したくなっちゃってるんでしょうね。

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