世界、やさしくあってくれ
社会人サークルに入っている。
音楽系。週末に活動する。
練習には区の施設を借りる。そういう施設はたいてい駅から15分20分歩くところにある。
今回の練習場所は、ローカル線の最寄駅はほど近いけど、JR駅からは30分歩く施設だった。
まあ自転車なら自宅から15分なんですけどね。
歩きたい時、あるじゃん。見慣れぬ通りを散策がてら。角の民家の植樹に目を奪われたり、月の大きさに感心したりしながら。
という気持ちで今のところ、そこが練習場所の時は少なくとも片道は歩いている。
この日は往路を歩くことにした。終わった後用事があったし。
⚠️突然見出しが登場しますが日記に綴る2つの出来事をなんとなく見出しで分けてみただけです⚠️
見知らぬ父子の姿に感慨を覚える
歩き出す前に駅の外のベンチに腰掛けて腹ごしらえをしていた時、「事」は起こった。
父と子がいた。おそらく誰か(お母さん?)を待ってる時間だったんじゃないかと思う。
子どもの方は、2、3歳くらいの男の子。
お父さんはその子の歳から考えるとちょっと年齢いってるかな、とは思えた。でも男の子が「パパ」と言ったのを聞いたので間違いない。
抱っこ紐で身体の前に赤ちゃんも抱えていた。
男の子がお父さんを押しこくって(実際にはお父さん自身の力で)壁の方に追いやる。
お父さんは「ウワ〜、やられた〜」とか言っている。
そして男の子が自分に背を向けて少し歩いたら、「ウワ〜!」と男の子に向かっていく。
男の子は「キャー!」と超高音の歓声を上げる。
歓声を上げながらまたお父さんを壁の方へ押す。
お父さんは壁際に追いやられる。
この繰り返し。ひたすらに。
ずっ……と同じことをやっていた。
大人の目で見れば単調にも程があるぞというくらい。
でも男の子はずっと楽しそうだった。毎回毎回飽きずに「キャー!」と喜んでた。
これ。
これは大人にはもうできないことだ。
たったあれだけのことがあんなにずっと嬉しいんだ。
もしかすると、「お父さんが構ってくれる」という感情面でのプラスもあるかもしれない。その喜びが声色に120%で溢れ出る。延々とお父さんに同じ茶番を強いる。
でも実は男の子の振る舞い以上に、お父さんのそれに心を打たれていた。
お父さんにとっては、あの遊びは本来は絶対に茶番だ。
いやちょっと待って、説明させて。
子どもがいなかったらやらないでしょ?幼児がいなきゃそもそもやらないし、仮に同じことを親しい人とやれと言われたとて、絶対に夢中にはなれないでしょう大人は。
美しい景色やカラオケには夢中になれてもさ。茶番てそういう意味です。
お父さんずっと同じエネルギーなの。楽しそうなの。
見てるこっちが(まだやるのか……)とか思っちゃってるのにね。お父さんも夢中。夢中で茶番に興じていた。全然「惰性の感じ」にならない。
これはお父さん、夢中の「振り」をしているわけではないんだな。本当に夢中なんだ。子どもが夢中なことに夢中になってるんだろうなと感じた。
子どもありてこそ生まれる夢中。
独身だから分からないけど、親にはきっとこれからそういう瞬間がたくさん訪れるんだろう。
もちろんそうじゃない瞬間も。
そしていつかそういう時期が終わる。
子どもという他者の自我との距離感を、愛情と理性のハンドルを微調整しながら慎重に慎重に修正し続けていく。
そういう意味では、「構ってもらってる」のは大人の方なのかもしれない。
あ〜、いつかこの子も大人になるんだ。この子が成人する頃って世界はどうなってるんだろ。この10年くらいの世界の変わるスピードの速さよ。いわんやこの次の10年、20年をや。そこに優しさは、憩いは、救いはあるのかい。
この瞬間はきっと大人になったこの子の記憶には明確に残らない。ありふれた日常の1ページの1行。
だけどもし覚えていられなくても、喜びは降り積もるものだと信じたい。愛された時間は彼にも見えないところで、未来の彼の自尊心に繋がっていると信じたい。
↑なんだこれは?あらためて言葉にすると我ながら「お前は何なんだ?」という思いが強い。完全なる他人です。
『「構ってもらってる」のは大人の方なのかもしれない。』←独身が何を言ってるんだ。分かったような口を叩く資格があるのかお前に。
あと、見ず知らずの父子を起点にこんなに子供の将来に思いを馳せるのはなんか思想的には大丈夫ですか?もう不審者ですか?
エクスキューズおわり。
そんな風に見ず知らずの親子をぼーっと眺めていたらパンを食べ終えたので、目的地に向かって歩き出した。
ナイスな外観の建物の正体
道中、3階建てくらいの、なにやらウッディーで洗練された建物を見つけた。大きい。敷地も広そうだ。ガラス戸に「カフェスペース」みたいな紙が貼ってある一角があった。
あら素敵、ニュータイプの共同住宅?それともこれも自治体運営の施設?
そう思ってその場で建物名らしき名前で調べたところ、そこは総合福祉施設だった。特別養護老人ホーム、ショートステイ、デイサービスから訪問看護まで行う福祉法人の施設。地域公益のために貸し出すスペースや子ども向けのイベントも実施している、らしい。
これは数年前に行ったスペインはバルセロナのサン・パウ病院(Wikipedia)。ガウディのライバルと称された建築家モンタネールが設計を手掛けたモデルニスモ建築。かなり豪華というか、優美。
ここの建築コンセプトが「病人(癒しを必要とする人)にこそ、美しい芸術が必要」(※私訳)。
これをイヤーガイドで聴いたとき、そうだよなぁ、と、めちゃくちゃ感動してしまった。
なんというか、「清潔」と「無機質」、「真面目」と「質素」が同一視ような価値観が、日本的な(?)感覚にはあると感じている。とか書いておきながら私自身、密教のゴテゴテした寺よりスッキリした禅寺の方が落ち着くのだけど。いやでも別に矛盾はないのか?禅寺の庭園はいわば芸術だもんな。ゴテゴテばかりが芸術じゃない。芸術は癒しになる。平野啓一郎の『かたちだけの愛』にも、癒しを目的として芸術を志向した病院というのが出てきた気がする。
失われた10年が20年になり、もはや左記のように形容すること自体がなかったことになり、きっとこの先、私たちはなかなか上向きの社会を想像できない。
けれど、病人は病人らしく、とか、病人に限らずその時その時の弱い立場の人を不用意なイメージでできた「分相応」に押し込めてそれらしく振る舞うことを強いるような社会よりは、文化に、芸術に、余剰に目を向けられる社会が良いなと思う。あの男の子が大人になる未来は。
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