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「何を考えてるかわからない」とか「感情が見えない」とか

こころがざわついて、いてもたってもいられなくて、怒りともどかしさと寂しさに押しつぶされそうになって、わたしは23時半の街へ飛び出した。
周囲の音を消したくてイヤホンの音量を2つぶん上げた。ただひとりになりたい。誰もいない、誰にも邪魔されない場所でだいすきなものに囲まれて閉じこもっていたい。


仕事で社内のひとに散々なことを言われた。
わたしの仕事への気持ちを馬鹿にするような言葉たち。そっちは甘い気持ちかもしれないけど、とか表情から真意が読み取れない、とかこの案件への愛が感じられない、とかなんで、そんなことを言われなきゃいけないのかわからなかった。ましてや、上司でも直属の先輩でもないし同じ職種でもないのに、なにも仕事内容なんかわからないのに。もっと馬鹿みたいに騒いで全部を言葉にして感情を見せびらかせばよかったの?言葉の端々にわたしのこと暇だと思ってるんだろうなあと伺えるような表現が散らばっていて、“なんで”がわたしのこころで大きくなる。しかも、親切に見せかけた嫌味ぷんぷんの言い回しをされて、さも自分が正義ですよって顔をしてきてタチが悪い。目に見えるものだけが全てじゃないのにな、
わたしは笑って、ふざけた調子でその場をやり過ごす。笑っていないと涙が出そうだから。

何を考えてるかわからない、とよく言われる。
そのたび、そんなこと本人に言うなんて最低だなって思うし、そんな風に思われてしまう自分もきらいだと思う。わたしは感情をうまく出せない。感情が出るより先に、相手の望むほうを、その場が望むほうを選び取っているわたしがいる。
なにを考えてるかわからない、と言われるたびに、考えていることが相手に筒抜けになってたまるか、他者の感情がわかるなんて思い上がるな、そんなあなたにわかられてたまるか、想像力の欠如だ、と思ったりする一方でわたしだって自分の感情がわからない、と思う。

自分の感情がわからないと言ったら大袈裟かもしれないけれど、感情の前に一個の布があって隔たれているような感覚がある。直接触れることはできなくて、布越しに染み込んできたぼんやりとした感覚のなかで感情を感じ取るけれど、楽しいとか悔しいとか怒りとかの感情よりも悲しみがつよくつよく滲み出てしまう。わたしにはもう悲しみの感情しか残っていないのかもしれない。悲しみはこころにシミとなって広がっていく。楽しさとか悔しさとか怒りとかは拭おうとせずともすぐに落ちるのに、悲しみは拭おうとすればするほど濃いシミとなって染み込んでいく。

感情を抑えることでわたしはずっと自分を保ってきたんだと思う。感情をむき出しで生きるのは無防備な心臓を手に持ったまま歩くようなものだもん。直接自分の内側を傷つけられたらわたしはわたしを保てなくなるかもしれない。だから、抑えて、抑えて、相手が望む、その場が望む正解を選び取る。そんな不要な器用さを身につけて生きるのがより一層へたくそになった。

どれがいいか、どっちがいいか聞かれる時、そこには正解があって、その正解から外れることは相手の期待を裏切ることになる。わたしは相手の期待を裏切ることがこわい。ぶつかることがこわい。否定されることがこわい。だからなにかをうまく選べない。

怒られる時、まっさらな状態で相手の感情を受け止めたら致命傷を負ってしまう。だから平気なふり、大丈夫なふり、強いふりを装って感情にふたをする。溢れそうになる一歩手前で踏みとどまることは得意だし、わたしは表情筋がしんでるからなにも感じていないように感じるのかもしれない。ひとが相手を怒りつける時、それは自分の怒りをぶつけることで発散したいのがたいていだから、怒りがいがないんだと思う。わたしはただ嵐が過ぎ去るのを自分の感情が溢れないようにしながら必死に耐える。ひとりになれる場所に行って少しでも油断すると悲しみの感情は渦となってわたしを飲み込みそうなほど勢いをもって底から湧き出てくる。言葉にならないその渦は涙となってマスクを濃く湿らせていく。人前では泣かない、だって、泣いたら負けてしまう。そんな気持ちがある。女だからって舐められたくない。泣いたってなにも解決しない。わたしの中に強くあるのはかなしみの感情ばかり。

嬉しいことがあった時、純粋に嬉しいとかすごいという気持ちが出る前に、こんな時はどういうリアクションをするのが正解だっけ?と考えている自分がいる。そうして考えたなかでいちばんその場に相応しいリアクションを組み合わせて、相応しい自分を演じている。
楽しい時、嬉しい時にどういう反応をすればいいのか考えすぎてすごくぎこちない笑顔になる。だからわたしはサプライズをするのもされるのもあまりすきじゃない。


自分の感情をうまく掴めず外にも出せないわたしは
時々、自分が誰なのか自分が何者なのかここはどこなのかという意識が曖昧になる瞬間がある。その感覚は子供の頃からあって、わたしにとっては慣れたもの。でも、この感覚が普通じゃないと気がついたのはわりと最近のことだった。自分が自分じゃなくなるような感覚って時々あるよね、と友人に話したらそんな感覚の経験はない、と言われて不安に思って調べていたら離人感・現実感消失症というものを見つけた。

自分が自分の手から離れていく感覚が子供の頃は怖くてたまらなかった。頭は起きているのに意識が遠くなっていって、記憶がそのままなくなるんじゃないかと思うこともある。そういう時、必死に自分の名前や年齢を頭の中で繰り返す。わたしは、〇〇。わたしは、〇〇歳。今〇〇にいて、〇〇をしている。そういうことを頭で反芻しているうちに、本当にそうだっけ、わたしって今までここで生きてきたんだっけ、わたしってこれからこの人生を歩んでいくんだっけ、とか思って軽く絶望する瞬間がある。何を言っているかわからなかったらごめん。でも、そういう瞬間が時々、ある。

離人感・現実感消失症って、自己に意識を向けすぎると起こってしまうとも言われてるらしい。自分の感情に鈍いわたしは、奥底の感情を掴もうとして伸ばしてはいけないところに手を伸ばしてしまっていたのかもしれない。
これは子供の頃からある感覚だし最近は回数が減ってきているからまったく問題ないけど、自己に意識を向けすぎるのもよくないんだね。

23時半に街へ飛び出してからそんなことを考えていた。わたしはいつまで経っても上手に生きられない。こころのアクセルは0か100かしか選べないし、ブレーキは錆びついて全然機能しない。飛び出したいのに飛び出したら止まれない。

何を考えているかわからない、と言われるたびに誰かのせいにしてしまいたくなる自分がいる。わたしは生きるために必死に感情を押し殺すしかなかった。強くならないと生きられなかった。強さを装わないと生きられなかった。わたしをこんなふうにしたのはあのひとたちやあのひとたちなのに、なんて他人のせいにしたくなる。過去にいつまでも囚われて、わたしはいつになったら外の世界にいけるのかな。過去で出来上がった自分自身が足枷になってうまく歩けない、自分の毒で死んでいくみたい、と思ったりしてなぜかおかしくもないのに笑ってしまう。なんかそういう生き物がいたような気がする。

自分の感情をうまく汲み取り伝えられないわたしは
今日も「なにを考えてるかわからない」とか「感情が見えない」とか「メンタルが強そう」とか言われる。遠回しに鈍感とか無神経って言われてるみたい。誤解なのに、それを弁解する術はわたしにはなく、まわりに思われる印象がわたしの輪郭を縁取って、ゆれる二重の線が蜃気楼のように淡くにせもののわたしを映し出す。そのにせもののわたしはわたしの手を離れて本意とは違う姿で笑っている。
それでもわたしはここにいるよ、自分がわからなくなっても、不器用すぎるほど不器用に生きてるよ、そう伝えたくて、気づいてほしくて、訳もわからない、とりとめもない、まどろっこしい文章を書いては消して書いては消して、電波の海に流している。

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