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すきなひとを推しと呼んでしまう弱さ

すきなひとがいた、心からすきだったひとのこと。
わたしはすきなひとを「推し」というかみさまにしないと、すきだと伝えられない。


何度も何度も気持ちを伝えた、呼吸するように「すき」と言った、何度もプレゼントを贈った、何度も会いに行った、春も夏も秋も冬もどの季節が過ぎても思い出す、自分から離れたくせにばかだなと思う、でも自分の気持ちを決して返してくれないひとを想い続けるのって結構しんどい、しんどかった、結局上下の関係がわたしたちの間にはあって、その関係は変わらないものだった、出会った時の関係って大切だと思う、何回生まれ変われば一緒にいられるんだろうとか考えてみる、もういっそ猫でもいい、犬でもいい、あなたにやさしく撫でられたかった。

それくらい、すきなひとだったのに、わたしはすきなひとを推しと呼び続けた
推しと呼べば関係が壊れないから、
推しと呼べば周りからばかにされないから、
推しと呼べば自分が傷付かなくて済むから、
推しと呼べば憧れに留めておくことができるような気がするから、
その全部が全部正解なような気もするし不正解なような気もする。いつだったか、すきなひとに“特別”だと言われたことがあった、でも嬉しくて舞い上がったのは一瞬だった、大勢の“特別”のうちのひとりに過ぎないことを知った。
友達にすきなひとがいると打ち明けたら「それってホストと同じ」と言われた。
そんなどうしようもなく小さい言葉に傷ついていた。憧れに留めておけばずっとこのままでいられると思った。

結局わたしは最後の最後まですきなひとを推しと呼び続けた、へらへらと「すき」を溢し続けた。
あの頃のわたしにはそれしかできなかったんだ。

今でも思い出す一日がある。
寒くて凍えそうな冬の日、初めて手を繋いだこと、いたずらみたいに笑う横顔、見えなくなるまで見送ってくれる立ち姿、やさしい文面に添えられたいつもの絵文字
あの頃あの時、わたしがすきなひとを推しではなくすきなひとと呼べていたら今違う関係があったりしたのかなとか思ったりしてみる、いや、そんなはずはないか、だってわたしが推しと呼ぶのをやめてもわたしのすきはいつまでも届くことはないのだから。

その恋(のようなもの)が終わったあとしばらくして、カフェの店員さんを好きになった。
会社の近くにあるカフェで、毎日のように通った、
2回目で顔を覚えてくれていた店員さんがいた。
他愛ない話を毎日のようにするようになった。
鬱屈した毎日をやわらかくしてくれるその時間はわたしの生活の癒しと唯一の楽しみになった。
近づきたくてでも壊したくなくて、また、わたしはすきなひとのことを推しと呼ぶようになった。わたしが推しと呼ぶ時に決めているルールというか習慣がある。それは、本人にも直接推しということを言ってしまうこと。ある種推しはすきの一種だから、好意を寄せられて不快に思う人間は少ない。離れては行かなくなる。わたしはそうすることで心地よくて都合のよい関係を保とうとするずるいやつだ。デメリットは小さなでも確かな上下関係が生まれてしまうこと。対等な関係は保てなくなる。
そんな関係もぜんぶ最後はわたしが壊してしまったわけだけど。

思えば、すきなひとを推しと呼んでしまう癖は昔からあった。
推しと呼んで対象をかみさまのように祀りあげてしまうのは、拒否されるのが怖いから。
一方的な関係と割り切ってしまえば、気持ちを返してもらえなくても傷つかなくて済むから。
結局、何年経っても何歳になっても、わたしは傷つかない方法を探し続けている、すきなひとを推しと呼ばずにはいられないでいる。

少し前、SNSで「直接的な関係にあるすきなひとを推しと呼んでるやつはおかしい」(うろ覚えでニュアンスだけどごめんなさい)というポストがバズっていた。このポストを見たとき、どきりとした。わたしのことだから。
リプ欄を覗いたらいろんな意見が飛び交っていた。わたしはそのどれにも同意したくなかった。だって他人を傷つけなければどんな気持ちを持とうがその関係にどんな名前をつけようが、そんなの本人の勝手じゃないの。他人の世界があってわたしの世界があって、そこには確実な線引きがあって、あのひとの価値観があってわたしの価値観があって、それでいいはずなのに、ぜんぶひとつにまとめようとしたら曖昧なままでこそ美しく見えるものまで飲み込まれてしまうのに。わたしは性格が悪いから、すきなひとに素直にすきと伝えられるなんて、「すきをすべて拒絶されず受け入れられて幸せな恋愛しかしてこなかったんだろうなあ」とか思ってしまう。すきなひとを推しと呼ぶ弱いやつを痛めつけてそんなに楽しい?とか。なんてね、叶わなかった想いくらい美化させたっていいでしょう。

わたしは今日も「すき」を「推し」に変換する。
すきは拒絶されても「推し」は一方的な関係で完結できる。その都合の良さが心地よい。わたしがよく「好き」ではなく「すき」と書くのは、そのほうがやわらかくて気持ちの彩度が曖昧に見えるような気がするから。わたしにはそれくらいの「すき」でいい。ほんとうにすきなひともすきなものも、手に入らないことを知っているから、本気じゃないふりをする。わたしは失うのがこわくて、自分のすきを騙し続けている。

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