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ひそかにこぼれる、あふれるもの

大きな池の水面がゆれる。広がった丸い波紋が折り重なって網目をつくる。水のあやとりみたい、思わず心のなかでつぶやく。まっすぐな直線ではなくてもそれはきれいに編み込まれて静かに揺れている。

休日のお昼時、市ヶ谷での用事が終わった後、ふらふらとオフィス街を歩く。市ヶ谷から麹町、半蔵門、皇居に出たら霞ヶ関、日比谷、とゆっくりとあたたかい陽気に包まれた3月の街の景色を流し見る。日向はぽかぽかと暖かいけれどたまに吹く風はまだ少し冷たくて、それが歩いていてとても心地いい。ヒールのブーツだけれど、どこまでも歩いていけそうな気がする。耳元ではだいすきな曲がやさしく景色を彩る。

日比谷公園でこの文章を書いている。
光に包まれた日比谷公園はぽかぽかと暖かくて、
光のなかにいるみたい。木々の狭間で太陽に照らされる瞬間、うれしくて頬が緩んでしまう。わたしの幸せはこれかもしれない。なんでもない休日に太陽に照らされながらゆっくりと街を歩く。隣に大切なひとがいてくれたら、なんて欲張りな願いは見えないように蓋をしつつ、あたたかい光に目を細めた。今日わたしは歩きながら、中途半端な愛のことを考えていた。

わたしは、美しい言葉を使うひとがすき。美しいというのは、丁寧、とは少し違くて、やさしいという意味に近いかもしれない。
ふとした会話で、「愛しい」という言葉を使うひとがいた。わたしはそれだけで、こころを奪われてしまう。すき、とかかわいい、とかそういうありふれた言葉じゃなくて「愛しい」と溢してしまうそのひとのやさしさや温かさ、語彙力の豊かさにどうしても惹かれてしまう。

わたしは、本が好きなひとがすき。本が好きなひとは、言葉の重みをわかっていて、見えない外の世界の広さに想いを馳せる素晴らしさを知っているひとが多いと思うから。本を読むのは、知らない環境や他者の感情、自身の内側に触れることだと思う。だから、本を読むひとはどこまでも奥深くて知りたい、と好奇心を掻き立てられるようなひとばかり。

よく、飲み会で聞かれる話題で、「どんなひとがすきか」「どんなひとがタイプか」という質問がある。こういう質問はいろんなところでされるから、人それぞれ、自分なりの決まり文句みたいな回答が決まっていると思う。
わたしはいつも「尊敬できるひと」と答える。こう答えると、自分よりも目上とか知識があるとか、そういうひとがすきなんだと思われることがあるけれど、少しだけそれとは違う。「尊敬できるひと」というのは「美しい言葉を使う」とか「本が好き」とか、そういう部分に表れる生き方とか考え方とかそういう根本の部分の話(急にスケールがでかい)。言葉や仕草から滲み出るやさしさや温かさみたいなものにいつもわたしは惹かれてしまう。美しい、と見惚れてしまう。言葉の大切さがわかるひとはいつだって繊細で思慮深くてしなやかな強さを持っているひとばかりだから。そういうひとはほんとうの意味で、やさしいひとだと思うから。

ただやさしい、ただ親切、それだけじゃなくて、心の奥底からどうしようもなく溢れ出てしまうもの。つくりものじゃない、そんな美しさを持ってるひとはきれい。普段は見えないけれど、ふとした瞬間に意図せず零れ落ちる美しいかけら。

わたしのすきな本で、凪良ゆうさんの『神さまのビオトープ』という本がある。この本の中にあるすきなフレーズのうちのひとつ。

誰にも語られず、長い時間、密かに心の中にしまわれているもの。それがわずかな過失でこぼれる瞬間がもっとも美しい(以下割愛)

『神さまのビオトープ』凪良ゆう p.94より

この文章に、わたしがすきなひと、すきなもの、すきな時間、大切にしているもののすべてが詰まっている。凪良ゆうさんの作品はとっっってもだいすきで、特に『神さまのビオトープ』は自分的人生で出会えてよかった本第1位だと思ってるくらい大切な一冊。

わたしも意図せず密かに零れる美しさを持ちたいと思うけれど、それは意図してできることではなくて、だからこそわたしはそんな美しいひとに出逢ったら憧れずにはいられない。せめてわたしは、零れ落ちるやさしさを受け止められるくらいやわらかく、強く、なりたい。なれるかな。なりたいな。

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