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のんびり過ごす

NAKです。結構重症だった鬱病や、家族の看護介護、看取りから随分と経ったので、もう鬱病前の活動量に戻してもいいくらいなのだけれど、戻りたくない気持ちもまだあって、のんびりと過ごしています。

頑張ろうとすると休んでいいよ〜とひーちゃんたちが言ってくれて、かと思うと、できるできる!と背中を押してくれることもあって、オンオフのバランスがとても良い。

オフの方が断然多いのだけれど。今はそれが許される環境にあるし、徐々に自然の流れで活動的になっていくのだろうとも思うので。ピアノの生徒も増やさず、他の仕事も積極的にはやらず、この10年できなかったことをのんびりとやるのが今は楽しい。

こんな時期があってもいい。鬱病のときはずっとベッドの中で、それはそれでのんびり休むことを楽しんだけれど、今はのんびりと動くのが心地良い。のんびりっていいなぁとしみじみ。

穏やかな心持ちがのんびり感に繋がっていて、これまでの人生で今が一番穏やかと思ふ。多分私は、人より少しだけ波瀾万丈だったのと、HSP気質のせいもあり敏感過ぎるから。

今はその敏感さも穏やかになって、限界まで頑張ってきたよね、だからのんびり過ごしてもいいよね、と思える。

置かれた状況から逃げた方がいいときもあれば、そこに留まり状況がより良くなるよう頑張らなきゃいけないときもある。

私は思春期に自我を守るために逃げて、この10年はは逃げるという発想を一切抱かぬまま、自分にできる限りのことを、限界を超えたと思えるくらい頑張り、その両方を経験したけれど、前者は逃げてよかったと思うし、後者はきちんと向き合ってよかったと思ふ。

魂がどちらを求めているか、なのかな。魂が答えを知っているというか。私は自分に正直にしか生きられないタイプで嘘がつけない。嘘がつけないというのは、こうしてひーちゃんたちに出会ってみると、自分の魂にそぐわないことはできないということだったのかもしれない。大変なことも多かったけれど、結果それでよかったんだと思える。

ひーちゃんたちと出会う前の私は、魂なんて言葉は使っていなかったけれど、魂という言葉を当時の私が使っていた言葉に置き換えると、それは信念になる。とにかく純粋でいたかった。甘い、現実的でない、と周りからいくら言われようとも、私には言動と行動の一致、自然体でありたい、という信念があった。それが私の思う純粋さ。

ほんと、言動と行動の一致だなんて、当たり前のように思うのに、人間社会はこれと真逆なことが多い。理想と現実。口では理想を言っておきながら、現実はそうはいかないからという欺瞞。

一人ひとりが理想と現実を一致させて、言動と行動を一致させて生きられたなら、思春期の葛藤はどんなに緩和するだろう。若いうちは言動と行動を一致させるのが当たり前で、そうでしか生きられない。でも大人になるにつれ、社会はそれと真逆なものを若者に求め始める。

私はそんな社会に適合できなかった。自分の信念の方を選びとった。おかげで、思春期にも重たい鬱病になったし、自殺未遂なんてことにもなってしまったのだけれど。

理想と現実を一致させて生きられる環境作り。それがこれまでの私の人生だったように思ふ。そういう環境がなければ自分で作るしかない。だから私はどこかに所属するということができない。フリーでいたい。

のんびりと寛げるのは、そんな環境が今ここにあるからなんだろうな。ほんと、振り返ってみると、私頑張ってきたじゃんと思う。だからもう少し休んでいよう。好きなこと、やりたいことだけをして、あったかいモフモフなタオルケットにくるまって、冬を満喫しよふ。

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