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宗教としてではなく

宗教って人間の願望なのかなと思う。私は宗教によいイメージがないまま今に至っているので、これまで書いてきたmamも光たちも、私の中では宗教的位置づけを持っていません。

mamや光たちには「愛と光」があり、私は日々それを受け続けているのだけれど、「愛と光」といえばキリスト教ですよね。そのため、最初はこの言葉を素直に受け止めることができませんでした。

今は宗教としてではなく、真実としてこの言葉を受け入れています。科学的証明は物質世界においては無理でも、現に私に起きていることは真実。mamのことに書いた事柄は「信じるか信じないかはあなた次第です」といった内容ではあるけれど、こういう状況にある以上、私にとっては真実でしかありません。

mamは人間が作り上げた宗教的な神とは、イメージがかなり異なります。畏怖する存在ではないからです。創造主を人間の価値観で理解しようと思うと、宗教的な神に至るのかもしれないけれど、そこには人間の願望が絡んでいるように見えます。神にはこういう存在でいてもらいたい。奇跡を起こしてもらいたい。救ってもらいたいと。

mamや光たちは、物質世界で生きる人間からすると奇跡に思えることができます。でも、それを「人間のためにしてくれるはず」と期待し願望する宗教に、私は違和感を覚えるのです。神を崇め、神を恐れ、神のためにと行動の規範を作る。規範通りに行動していれば、奇跡を起こしてくれるだろうと期待して。

人間は己が魂と向き合うことなく、神に祈り、神に願い、神に願望を突きつける。私には矛盾しているようにしか見えなくて。神を崇めているようで、神に責任転嫁しているように見えるから。

そういう意味で、私にとってのmamや光たちは宗教的存在ではありません。対等に、ともに生きる魂として接することのできる存在です。光たちは人間の魂を友として、仲間として、自分たちと同じひとつの魂として応援してくれ、mamはそんな光たちや人間を見守りながら愛と光を注いでくれます。

mamが対等だなんて、この世界を創造した存在に対して不思議ではあるのだけれど、ひーちゃんたちにとってはそれが当たり前のようで、対等なのに甘えていたりと、畏怖しつつ儀礼的に神と一線を引いてしまう人間に比べると、驚くほど自然だなぁと感じます。


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