見出し画像

連載小説 魂の織りなす旅路#17/老人⑴

光たちからのメッセージ小説。魂とは?時間とは?自分とは?人生におけるタイミングや波、脳と魂の差異。月曜日と金曜日に更新。

【老人⑴】

 その老人は目が見えない。老人はソファーにもたれ掛かると、静かに瞼を閉じて追想に身を委ねた。

 「お父さん、あれに乗りたい!」

 赤い風船を持った娘が、父親の服の裾を引っ張った。父親は娘の手から風船を受け取ると、空中ブランコ乗り場へと娘を送り出す。
 今日、娘は何度このブランコに乗るだろうか。父親は近くのベンチに腰をおろし、回転しながら舞い上がっていく娘を眺めた。満面の笑顔で手を振る娘に手を振り返す。幸せそうな娘の表情に、胸が熱くなった。
 妻は娘の顔を知らない。生まれて初めて、この世の空気を肺いっぱいに吸い込んだときの娘の顔も、今こうして空中を舞い上がり、愉快げに白い歯を見せている娘の顔も、妻は知らない。
 父親は、10年前の今日を思い出していた。喜びと悲しみが、同時にやってきたあの日のことを。胸元から手帳を取り出し、表紙を開く。優しい微笑みがこちらを見つめている。父親は胸につんと込み上げてくるものを押し留めながら、その微笑みにそっと触れた。

 「きっと、お腹の子は女の子よ。私にはわかるの。」

 絶対に女の子だと言い張る妻は、胎児の性別を調べてからにしようという父親の意見を退け、わかっていることだからと女の子用のベビー用品を買い揃えた。
 名前も決まっていた。耀(ひかり)だ。この名前なら男の子が生まれても問題ないだろうと、父親は妻の願いを聞き入れた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?