変化はどうやって起こるか。
アイルランドに逃げるのがよさそうだと聞いて、とりあえずDuolingoを始めてうっかり117日目になる。英語が使える様になりそうな気配は感じないのだけれど、昨夜見た『マルホランド・ドライブ』が意外とぐいぐい耳に入ってきたので、微細な手応えとして数えておこうと思う。
同時に始めた筈のポール・オースターの書写はあまり芳しく進んでいない。これをなにか話し言葉に切り替えようと思って、谷川俊太郎の訳が隣に書かれているスヌーピーを何冊か手元に引っ張り込んで、セリフを写すことにした。とりあえず毎日やれば、語彙が増える効果はあるだろう。
スヌーピーの書写をしていて思い出したことがある。
小学6年の時、校長先生に日替わりで原稿用紙一枚分の作文を出す決まりになって、皆で順番に作文を出していた。校長先生向けの作文だが、校長先生のコメントだけでなく担任の先生のコメントも付いてくる。学校組織のヒエラルキーの中で、教頭先生のコメントがなかったことがせめてもの救いだろうか。
それまで少年誌やら児童向けの漫画ぐらいしか読んだことがなかったので、スヌーピーはなかなか新鮮で、キャラクターのセリフや考えることが面白いと書いたところ、そこに付いた担任のコメントが「漫画を読んでいると、考えが漫画っぽくなってしまいます。気をつけましょう」という感じのことだった。
校長先生がなんとコメントを返してきたかは覚えていない。
漫画ダメ、ゲームダメはいまどきなら鼻で笑われるものと思うし、今スヌーピーを写していても、漫画だと切り捨てるものでもあるまいと思う。
とはいえ、江戸期はそもそも戯作の出版が統制され、文明開化後も小説を読むなんてもってのほかと言われていた筈で、これはいつ頃まで言われていたことなのだろうか。
昭和はマンガやビデオゲームということでいいのか、映画もそうかもしれない。近年はエロの扱いやAVのフィクション性がいろいろやかましいだろうか。
担任の先生が「漫画はやめとけ」と言った程度に、当時は漫画には薄っぺらいものが多いと感じられただろうか。
いい加減初老にもなるので、ここまで十分に精神生活に影響を受ける様な漫画や、他のフィクションも体験した。当時の担任の先生と同じ様な乱暴な切り捨てをしようとは思わないが、個人的には、「消費向けのフィクションの消費しやすい薄っぺらさ」については、もう価値を見出せなくなってもいる。
どんなに売れていようがなんだろうが、市場規模だの、そこにつながって食い扶持を稼いでいる人間の存在だのについても、全くなんの共感もない。
仕事ともなれば皆それぞれに大変だろうし、苦労も喜びもあるだろう。当たり前のことだ。
そんなわけで、気が向けば消費するだろうし、衰退していったところで多分本当に困らない。現に今、作品を追いかけている漫画家は数名だけになってしまっている。
何が気になってわざわざこんなことを書いているかといえば、消費向けの娯楽の薄さと量と、その消費のための所要時間の関係だ。
売れるためには、どんどん歯応えをなくして楽しさを刺激する工夫がされ、売れる傾向だけが丁寧に攻められる。
実績のある傾向から外れるもの、受け入れのために多少のチュートリアルが必要となるものは忌避され、日本人の子供が減っていくのであれば、日本語のフィクション消費者の市場規模は徐々に縮小していくし、かつては「当然ここからは卒業して年齢相応のものに向かう」と割り切ってか、だからこその意味を込めて作られていたものが、どうにかして長く卒業されずに済むかにフォーカスされていく可能性もあるのではないかと思う。
入り口を簡単に、そして掴んだら離さないというのは、持続していくための、当然の任務になっているのだろうとも思う。
『風来のシレン』の6が発売されて、進捗を自分の子供と話しあう日が来るとも思わなかったが、自分が息子と同じ年齢の頃はちょうどサブカルチャー的なものを必死で摂取しようとしてSFやら怪奇小説の方向に目がいき始めていた時期だったし、田舎生まれの田舎育ちなわけで、読んでみたい本が地元の図書館にもないし、絶版で古本屋にでもいくしかないけれど、最寄りの古本屋は隣の市に一軒だけで即詰みという状態を初めて体験した頃だ。
息子曰く「シレン楽しいよと布教活動するけど、友達には爽快感の無いゲームということで評判が悪い」そうで、シレンの爽快感は、そんなに複雑なものだろうかとも思う。
息子らの世代にとってはおそらく、攻略すべき刺激的な消費の対象が膨大にあって、おそらくそれと向き合っているだけでも十分時間がすぎていく。
ゲームなどには、ルールが複雑な方が楽しい場合もあるのだけれど、ある程度忍耐や慣れが必要で、一定の歯応えもあるものの方が格段に楽しいという風に人がなっていく必然は、一体どこに隠れているものだろうか。
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