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本当は迷いたいだけで正解とか不要でしょ

先日、ようやく配信で『テネット』を見まして、難解やら深いやらなにやら言われているので、どの程度じゃいと思いながら構えていたんですけど、なんのこっちゃ、時間は前後で流れないけど、起こった事は起こるってお約束はそれひとつだけじゃないですか。
なんなら般若心経でお馴染み、一切は空なわけでしょ。
パラドックスは順時間の中で考える不都合に過ぎなくて、考えてもしゃあないわけで、起こったことはしゃあないと。
セリフで宣言しとるやんけ。起こるの。結果じゃないの。観測しきれなかった場合は考えても無駄なの。素直に聞いてあげるべきだ。
対衝突とか、出られなくなるとか言ってるけど、それは観測者の観測の範囲内でのことだろうから、起こった認定についても深く考えたら負け。シンプルですよ。

なんでも深いとか口走る前に、作り手がここ見をろとチラつかせている場所をつらつら見ておくというか、そこを追いかける体験だけを素直にしたらいい普通の映画でしたよ。なんでしょ。未知の時間遡行に正しさなんて要らないですよ。それに、逆転はただのオカズって側面もあるんじゃないんですか?映像なんだし、やりたいでしょ。やりたいですよ。

こういう肩透かしで思い出されるのは、映画館でしか映画を見るなと厳しく我々を戒めた大学に通っていた頃の師重政の教え。
概ねどういうことかというと、正解とか不要なので、映画を見てる間の体験としての映画がどうだったかに着目せよということ。内容については、誤解や勘違いしていてもいいのよ。

『テネット』の難解って、最近SNSなんかでリピートした宣言したいがためのリピート流行りが定着したので、そういう論調形成しておこうって宣伝の作戦もゼロじゃねぇだろうという気がします。

ところで、筋を見せる気も正解を提示する気もさらさらなく、日本の演劇にありがちな「個の有様、心情を伝えることを意図する演技」ではなくて、「発生する瞬間を強調することを意図した演技」で、何回リピートしようが正解なんてそもそも無いうえに、いちいち細かい事を考えられる様にしてある割に、考えだしたらキリがない短いお話しを作りました。
血パンダによるリモート芝居『月を見るがごとく』。どうぞ。
あ、紀貫之の土佐日記の冒頭をちょっと知ってたり、あと、紀貫之は古今和歌集の仮名序も書いてるんですけど読んだことがあったりすると、歯ごたえが和らぐかも。
どっちにしても、短いお話しなんで、大丈夫。多分。


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