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第25話 正義感が冤罪を生む。

冤罪を生む背景を少し考えてみたい。

冤罪の責任は裁判所にある。裁判所が「疑わしきは罰せず」の理念を軽んじ、本来、検察の有罪立証の厳しい検証が責務であることを忘れ、一般国民と同じ処罰感情に侵された結果が冤罪である。

検察による無理な自白の強要も、これも裁判所に責任がある。裁判所が簡単に検察官の作文を信用するから、何が何でも供述を得ようとする。

なぜ、裁判官は、過ちを犯すのか。まずは、裁判官特有の「有罪バイアス」があることである。
信じられないことであるが、無罪判決を多く出すと、出世できないという。また、裁判官も検察には相当程度忖度しているようなのである。弁護士と違って、同じ公務員である。いわば、お仲間なのである。また実際に法務省を牛耳ってるのは検察だから、あまり、検察には歯向かえないらしい。ゴーン氏は「日本の裁判のボスは裁判官ではなく検察官だ。」と言った。あながち間違えではないようだ。

さらには、裁判官の実際の仕事は、判決文を書くことであり、無罪判決より有罪判決の方が圧倒的に多いから、コピペしやすいという。信じられない話だが、小さな事件ではありそうなことである。

さらには、裁判官には、「有罪慣れ」がある。とにかく、事件の99%以上は有罪なのだから、有罪判決に慣れてしまい、もし冤罪を生んだらという危機感が薄れる。そして、逆に無罪判決を出すことが怖くなってしまう。

私は、素人が判決に関与する「裁判員制度」は賛成である。なぜなら、素人には、このような「有罪バイアス」もなければ、「有罪慣れ」もないからである。

この裁判官の有罪バイアスに、さらに裁判官の間違った正義感、つまり、犯罪者を何が何でも懲らしめてやるという正義感。本来の裁判官の正義は、冤罪の発見である。この間違った正義感が加わって、冤罪が生まれる。

もはや、裁判官といえども、一般国民同じなのである。

池袋暴走事故のように、いったん、事件が発生すると、マスコミ、一般国民からは推定無罪無視の処罰感情が爆発する。このような世論の中で、果たして、裁判官が冷静な判断をできるだろうか? 一般国民に迎合し、有罪バイアスがさらに増大される。

和歌山毒物カレー事件がまさにその典型だろう。マスコミが騒がなければ、この裁判は、無罪であっただろう。

しかし、この国民の処罰感情も、もちろん、正義感故である。

犯罪者に対するこのような処罰感情や正義感はどこの国でもあることである。しかし、日本人の正義感は全体主義的な、いわば公共の正義感が強く出る傾向がある。

公共の正義感とは、「自分たちはまじめにやっているのだから、ルールを守らないやつはけしからん」という正義感。まさにコロナ渦に問題となった、自粛警察のようなそれである。

この公共の正義感というのは、一種のムラ社会的なもので、日本人は犯罪者に反省を求めたがるのが、そのいい例である。

日本人は、犯罪者に刑罰を科すだけでは満足せず、さらに深い反省を求めたがる。このような精神性を求めること自体、司法というものを感情論でとらえている。

しかし、これは推定無罪の原則に立てば危険な正義感である。無罪が前提なら犯行を否定するのは当たり前で、それを、反省していないから、けしからんとなれば、推定無罪の概念自体が無意味になってしまう。

公共の正義感で一番危険な考え方は、
「これが有罪にならないなら、こういった犯罪はすべて有罪にできない」

私は、この考え方が一番危ない考え方と思っている。本来、裁判は個々の事件を個別に判断するものであるが、全体の利益のために個人を犠牲にする考え方である。

この考え方は、特に物証の少ない性犯罪に使われることが多い。確かに被害者側に立てば、そう考えても致し方がないが、だがそこは冷静にならなければならない。無実かもしれない人間を処罰しても何も解決しない。

最後に、検察の正義について触れておこう。

我々は、日本の警察や検察は正義感が強いから、証拠の捏造などしないと思っている。しかし、これは完全に間違えである。

正義感が強いから、証拠も捏造するし、無理な自白の強要もする。

この容疑者は、本当のところ、やったのか、やってないのか、わからないけど、自分の手柄のために証拠を捏造するなら、それは罪悪感を感じるだろう。

しかし、こいつは犯人に違いない。こんな悪い奴がもし、裁判で無罪になったら、国民に申し訳ない。やったのは間違いないのだから、証拠を捏造したって、それは確実に有罪にするためであり、何も悪いことではない。

そう思って、証拠も捏造するし、無理な自白の強要もする。

人間は「正義」を旗印に掲げれば、なんでもする。

正義感は必ず暴走する。ただ、私はこの正義感を否定はしない。犯罪を憎む心は、本来、良いことだし、人間の本能だ。

だから、この正義感の暴走を止めるシステムが必要なのである。ところが日本人はこのシステムさえ、受け入れを拒否する。その根本にあるのは、日本人の完璧主義と言っていい。次回に続く。


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