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第27話 司法を一番の問題にしない評論家は三流。

今まで刑事司法の問題について論じてきたが、行政訴訟も含めて、司法全体について考えてみる。

この国を根底から支えているのは、司法である。

政治の問題も突き詰めれば、最後は司法の問題になる。
であるから、政治批判ばかりして、司法の問題を追求しない評論家は三流である。

左派批評家たちは、よく政治批判に次のような言葉使う。

「それは違法・違憲だ」
「民主主義が脅かされる」

例えば、最近では菅政権の「学術会議任命問題」について違法だ、違憲だ。と騒いでいた。

もし、本当に違憲であり、違法であるなら、それは司法によってちゃんと裁かれないといけないだろう。そっちの方が大問題だ。ドロボーが居るのは問題だが、ドロボーを捕まえる警察が居ない方がよっぽど大問題だ。

民主主義云々も、政治家が何をしても、たとえ、共産主義勢力が政権を取ったとしても、最高裁がしっかりしていれば、民主主義は守られる。

政治は民主主義をゆがめない。民主主義をゆがめるとすれば、それは司法だ。事実、一票の格差や、憲法第53条臨時会問題について、司法は常に政権寄りの判断をしてきた。

一票の格差は、これほど民主主義をゆがめるものはないだろう。もし、もっと早く一票の格差について、厳しい判断が下されていれば、今の日本はもっと違ったものになっていたに違いない。

憲法第53条臨時会の招集も、もっと守られていれば、今の日本はもっと少数派の意見が重要視されていたに違いない。

それに比べれば、学術会議問題など大したことではない。

日本の憲法は今まで一度も改憲されたことはないが、それは、日本の憲法は抽象的で、基本的人権とか、当たり前のことを言ってるにすぎないからである。いわば、理念だけで、具体的な事、例えば日本国民たる要件や議会の定数など具体事項は法律で定めることになっている。

だから、改憲する必要性がないのである。

また日本国憲法はどうにでも解釈できる特徴がある。なぜなら、憲法で守られる私権も、結局は「公共の利益に反しない限り」という前提条件が付く。
これがあるために、憲法の解釈はいかようにもできる。

コロナ渦で、日本は憲法の制約があるから、私権制限はできないという評論家がいるが、それは嘘だ。改憲派の方便だ。公共の利益が優先されるから、私権制限はできる。事実、過去にも「優生保護法」のような強力な私権制限があったではないか。

さて、このように抽象的で、いかようにでも解釈できる憲法に、実質的な法的制約を与えているのは、最高裁だ。だから最高裁は第二の立法機関であるだけではなく、国会より上位の立法機関だ。

したがって、この国において一番重要なのは司法なのである。

左派批評家たちも一応は、司法の批判はする。
しかし、あっさりしたものだ、適当に言うだけ言って、また政治批判に戻ってしまう。
安倍政権のモリ・カケ・サクラ問題のように、ネチネチとしつこく司法の批判も続けてほしいものだ。本当に日本を変えたいなら。

では、なぜ左派批評家は司法の問題をあまり追求せず、政治批判ばかりするのか。理由は簡単である。

問題の本質を追求すれば最後には司法の問題に行き着く。しかし、左派批評家たちは問題が一点に絞られては困るのである。彼らは批判するのが仕事である。だから、ネタは多い方がいい。それらが司法の問題に集約されては困るのである。

次に、政治は批判すれば、政治家には説明責任があるから、多少なりとも政治家から反応が返ってくる。また、実際に政治家は謝罪したり、法案を変えたりもする。だからいわば勲章がもらえるのである。

しかし、司法を批判しても、何の説明もないし、何も変わらない。いわば、「のれんに腕押し」なのである。

もし、本当に日本を変えたいなら、司法を変えるべきだ。そして、司法の問題をしつこくしつこく追及するべきだ。しかし、左派批評家たちは、日本国のことより、自分の仕事の方が大事なのである。だから、いつまでも政治批判ばかり繰り返しているのである。



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