ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」『再生産について 下』西川長夫・伊吹浩一・大中一彌・今井晃・山家歩訳、平凡社ライブラリー、2010年。
これは、ぼくが2023年9月10日から9月12日のあいだ、Twitter(現X…)上で書いたこの論文の読書ノートをまとめたものです。ぼくがマルクス主義っぽいものに苦手意識があるっていうのと、そもそも難しいのとで困っているとき、思いついたのが、いつも作っている読書ノートをTwitterでそのままリアルタイムで書いてしまえというものでした。実際、たまにフォロワーからいいねが来たり、友だちから反応があったりして、モチベーションが上がってよく読めたから、たぶんまたやると思います。古典とかがいいのかな。
それでは抜粋に入ります。
生産諸関係の再生産。ここでイデオロギーが問題になる。
リプロダクティブ・ライツの問題はないが、これも同様に資本主義的生産様式の問題としても考えるべきだろう。
非生産的な性のあり方に近いのが性風俗とその労働だと言えるか?いや……。複雑だ。産業化されているから。そもそもセックスというものの大半は非再生産的ではないか?
マルクスの『賃金、価格および利潤』
よくある
原注によればこれは『「資本論」を読む』とかのこと。読もう。
土台と上部構造=建物と、国家=machine=機関=機械。ドゥルーズ=ガタリ的に考えるなら「過程」にも注目が必要かな。
土台と上部構造の「理論」についても同じように考えているんだろう。形式と矛盾。1/、2/ってやつ原文ではどうなってんだろ
ルカーチもそうだけど、マルクス主義の定式は正しいんだ、実際に正しいんだ、と神経質に確認したあと、おずおずと何かを付け加えるっていう話し方しかできないんだなー。まあどんなマルクス主義者もそうか。しんど
AIEの登場。
「情報」の原語は?
共産党もAIE。アルチュセールは党についてどう言っている?
重要!
「抑圧的」は前のところでは「暴力的」と言い換えられていて、それが「イデオロギー的」と区別されている。どういうこと?と思ったら直後のところで、「賞罰、排除、選抜、等々」と暴力の例があげられている。家族なら体罰、DVが入るかな。
グラムシ的。
中世についての具体的な分析。
重要!フーコーとも比較したい。
学校という一本のレールと諸階層への分岐っていう図式は無理がありそうだが、労働者、プチブル、インテリ等の生産過程の記述としては重要。
そうそう、その通り。ブルジョア・イデオロギーの本質は隠蔽すること、という理解はルカーチとも似ている。マルクスとレーニンはどう言っている?
「フロイト以前」については『夢解釈』を読むべき。フロイトはそれに無意識の効果や工作をつけ加えた。アルチュセールも同じことをしようということ?
いいね
アルチュセールの正統アピールにはうんざりするけど重要。
イデオロギーと行為と実践の関係について述べる文脈で。ジジェクもパスカルの話をしていた。
『マルクスのために』も思い出そう。重層的決定の議論を補強するような話だ。
ラカンの主体・大文字の他者と比較するとどうか?イデオロギーは大文字の他者のディスクールなんじゃないか。
よくわからないが、この再認の概念が再生産の問題と関わっているのだと思う。精神分析的な言説にアルチュセールがオリジナルで付け加えているのはここらへんだと思う。行為と認識。科学哲学の文脈なのか?今村仁司『アルチュセールの思想』をまた読むこと。
つねに−すでに。213−214ページあたりを思い出そう。
アルチュセールにとって、ジェンダーとはひとつのイデオロギーであり、家族的イデオロギー的な概念である。
これはラカンの「大文字の他者 l'Autre」でしょ
西洋において、書かれたもの、エクリチュールといえば、まずは聖書のことなのかもしれない。デリダを読むときにも考えたほうがいいな。
ラカンの、他者も斜線を引かれているという議論に似ている。A/
アルチュセールを使ってラカンを読むようなかんじになっているけど、やっぱりラカンはキリスト教の話をしていたんだなということがわかる。斜線を引かれた他者 A/(表記できない。こういうの Ⱥ もあるけど)ってキリストのことだ
フーコーの規律権力と比較すること。
ぼくも抜粋中に付け加えるときは[]を使うのでややこしいけど、これは訳者によるもの。重要だ
後の追記は、イデオロギー、国家のイデオロギー諸装置、階級闘争の関係を考えなければならないと提起がされてだいたい終わっている。これで終わり!