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アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」ノート

ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」『再生産について 下』西川長夫・伊吹浩一・大中一彌・今井晃・山家歩訳、平凡社ライブラリー、2010年。

これは、ぼくが2023年9月10日から9月12日のあいだ、Twitter(現X…)上で書いたこの論文の読書ノートをまとめたものです。ぼくがマルクス主義っぽいものに苦手意識があるっていうのと、そもそも難しいのとで困っているとき、思いついたのが、いつも作っている読書ノートをTwitterでそのままリアルタイムで書いてしまえというものでした。実際、たまにフォロワーからいいねが来たり、友だちから反応があったりして、モチベーションが上がってよく読めたから、たぶんまたやると思います。古典とかがいいのかな。
それでは抜粋に入ります。

「したがって社会構成体は、以下のものを再生産しなければならない。
 1/生産諸力
 2/現存する生産諸関係」167−168

生産諸関係の再生産。ここでイデオロギーが問題になる。

「労働力の再生産は、自己を再生産する物質的な手段を労働力に与えることによって、つまり賃金によって保証される。賃金は各企業の簿記に記載されるが、それは「労働雇用資本」としてであって、けっして労働力の物質的再生産の条件としてではない。」171

リプロダクティブ・ライツの問題はないが、これも同様に資本主義的生産様式の問題としても考えるべきだろう。
非生産的な性のあり方に近いのが性風俗とその労働だと言えるか?いや……。複雑だ。産業化されているから。そもそもセックスというものの大半は非再生産的ではないか?

「われわれはまた、この最低限は、資本家階級によって「承認された」労働者階級の歴史的な必要物によって決定されるのではなく、プロレタリアの階級闘争(二重の階級闘争——すなわち労働時間の増加に反対する闘争と、賃金の削減に反対する闘争)によって強制される歴史的な必要物によって決定されるという点において、二重に歴史的であるということも指摘しておきたい。」171−172

マルクスの『賃金、価格および利潤』

「ところで、この労働力の専門技能(カリフィカシオン)(多様化した)再生産は、資本主義体制においてどのようにして保証されているのであろうか? 奴隷制や農奴制的社会構成体において起こっていたこととは異なり、この労働力の専門技能の再生産は、「現場で」(生産そのものの内部における見習い)保証されるのではなく、次第に生産の外で、すなわち資本主義的な学校のシステムによって、またはそれ以外の諸機関と諸制度によって保証される傾向(ここでは傾向法則が問題である)にある。」172−173

「だがこれらの技術や知識を別とすれば、そしてまたこれらの技術や知識を学ぶ場合でさえも、人びとは学校で、正しい慣例の諸規則、すなわち分業のあらゆる担い手が将来において占めるべく「予定されている」ポストに応じて守らねばならない礼儀作法の「諸規則」を学ぶのである——それは道徳と市民的職業的意識の諸規則、はっきり言えば、社会的−技術的分業を尊重する規則であり、要するに、階級支配によって確立された秩序の諸規則である。人びとはまた同様に学校で、「フランス語を正しく話すこと」、正しく「書くこと」、つまり実際には(未来の資本家やその従僕として)「正しい命令すること」、つまり(理論的な解決としては)労働者たちに「正しく話しかけること」、等々を学ぶのである。」173

よくある

われわれはかつて、マルクスは全社会の構造を、種差的決定によって節合された諸「水準」あるいは諸「審級」、すなわち下部構造あるいは経済的土台(生産諸力と生産諸関係の「統一」)、およびそれ自体が法的−政治的なもの(〈法〉と〈国家〉)とイデオロギー(宗教的、道徳的、法的、政治的、等々のさまざまなイデオロギー)という二つの「水準」あるいは「審級」を含む上部構造によって構成されたものとして考えていたということを述べた(そしてこのテーゼは史的唯物論の有名な命題の繰り返しにすぎない)。」176

原注によればこれは『「資本論」を読む』とかのこと。読もう。

「われわれは、上部構造の存在と性質の本質的なものの特徴を示すところのものを考えることが可能でありまた必要となるのは、再生産から出発することによってである、と考える。建物という空間的比喩がその存在を示しつつ概念的な回答を与えないでいた諸問題のうちのいくつかを明らかにするためには、再生産の観点に立つことだけで十分である。」179

「国家はひとつの抑圧「機関(マシーン)」であり、それは、支配階級(十九世紀においては、ブルジョア階級と大地主の「階級」)に対して、剰余価値の強奪の過程(つまり資本主義的搾取)に労働者階級を従わせるために、労働者階級に対するその支配を保証することを可能にする。」180

土台と上部構造=建物と、国家=machine=機関=機械。ドゥルーズ=ガタリ的に考えるなら「過程」にも注目が必要かな。

「じっさい理論という用語には、それに結びつけられた「記述的」という形容詞とは「しっくりしない」部分がある。このことは厳密には次のことを意味する。1/「記述的な理論」は、たしかに、いかなる疑いの余地もなく、理論の決定的出発を意味するが、しかし、2/理論が提示される「記述的な」形式はこの「矛盾」の結果そのものによって、「記述」の形式を乗り越える理論の発展を乗り越える理論の発展を要請する。」182

土台と上部構造の「理論」についても同じように考えているんだろう。形式と矛盾。1/、2/ってやつ原文ではどうなってんだろ
ルカーチもそうだけど、マルクス主義の定式は正しいんだ、実際に正しいんだ、と神経質に確認したあと、おずおずと何かを付け加えるっていう話し方しかできないんだなー。まあどんなマルクス主義者もそうか。しんど

「われわれの知るかぎり、グラムシはわれわれがここで選んでいる道を進んだ唯一の人であった。グラムシは、国家は国家(の抑圧)装置には還元されず、彼の言い方に従えば、一定数の「市民社会 société civile」の制度、つまり教会、学校、組合、等々を含んでいるという、「特異な」考えを抱いていた。不幸にしてグラムシは彼の直感を体系化せず、それは、鋭いが部分的な要約の状態にとどまっていた([[…]獄中ノート3、獄中からの手紙?])。」187、原注133

「国家理論を前進させるためには、ただ単に国家権力と国家装置の区別を考えるだけではなく、同時に、明らかに国家(の抑圧)装置の傍らに存在するが、しかし国家(の抑圧)装置とは異なったまた別の現実を考慮に入れることがぜひもも必要である。われわれはその現実を、その概念にしたがって、国家のイデオロギー諸装置 appareils idéologiques d’État と呼ぶことにする。」188

AIEの登場。

「われわれはとりあえず国家のイデオロギー諸装置として以下の諸制度を考察することができよう(列挙の順序には特別の意味はない)。
 —宗教的AIE(さまざまの教会制度)
 —学校的AIE(さまざまの公的私的な「学校」制度)
 —家族的AIE
 —法的AIE
 —政治的AIE(政治制度、さまざまな政党)
 —組合的AIE
 —情報的AIE(新聞、ラジオ−テレビ、等々)
 —文化的AIE(文学、美術、スポーツ、等々)」188−189

「情報」の原語は?
共産党もAIE。アルチュセールは党についてどう言っている?

「その大部分が公的な資格をもたず、ただ単に私的な制度にすぎないこれらの諸制度を、われわれはいかなる権利によって〈国家のイデオロギー諸装置〉とみなしうるのか、ということを問おうとすれば、この第二の考察をとりあげないわけにはいかない。[…]つまり、支配階級の国家としての国家は、公的でも私的でもなく、逆に公私のあらゆる区別の条件なのである。[…]〈国家のイデオロギー諸装置〉を現実化する諸制度が「公的」であるか「私的」であるかは、どうでもよいのだ。重要なのは、この諸制度の機能のしかたである。」190

重要!

「〈国家のイデオロギー諸装置〉の場合は、極限においてとはいえ、また極限においてのみ、副次的には抑圧的に、つまりきわめて弱められ、隠された、さらには象徴的でもある抑圧として機能するのである[…]。」191

「抑圧的」は前のところでは「暴力的」と言い換えられていて、それが「イデオロギー的」と区別されている。どういうこと?と思ったら直後のところで、「賞罰、排除、選抜、等々」と暴力の例があげられている。家族なら体罰、DVが入るかな。

「われわれの知るかぎり、いかなる階級も〈国家のイデオロギー諸装置〉に対して、またそのなかで、同時に自己のヘゲモニーを行使しなければ、国家権力を永続的に掌握することはできないのである。」193

「この[レーニンの]最後の指摘[=いかなる階級も~]は、〈国家のイデオロギー諸装置〉が、ただ単に階級闘争の賭金であるばかりではなく、同様に階級闘争の場であり、またしばしば階級闘争の苛烈な諸形態の場でありうる、ということをわれわれに理解させる。」194

グラムシ的。

「われわれは、例えば中世における教会(〈国家の宗教的イデオロギー諸装置〉)は、われわれがここで言及している過去に比べれば、新しい、相異なる複数の〈国家のイデオロギー諸装置〉に今日では割り当てられる数多くの機能、とりわけ学校的、文化的諸機能を、当時は一身に兼ね備えていたということを確認している。教会の傍らに、〈国家の家族的イデオロギー装置〉が存在していたが、それは資本主義的社会構成体におけるのと比べものにならないほど重要な役割を演じていた。もっとも〈教会〉と〈家族〉は、その外見にもかかわらず、唯一の〈国家のイデオロギー装置〉ではなかった。〈国家の政治的イデオロギー装置〉もまた存在した(三部会、高等法院、近代の政党の始祖であるさまざまな政治的党派や同盟、自治コミューン、ついで諸都市のあらゆる政治制度)。あえて時代錯誤な表現を用いるとすれば、強力な「前−組合的」〈国家のイデオロギー装置〉もまた存在した(商人や銀行家の強力な団体や、職人の組合、等々)。〈出版〉や〈情報〉はそれ自体、議論の余地のない発展を遂げたが、これは演劇と同様、最初は〈教会〉の不可欠な一部であり、次第にそこから独立していったのである。」198−199

中世についての具体的な分析。

「したがってわれわれには、舞台の前景を占めていた〈国家の政治的イデオロギー装置〉の働きの背後で、ブルジョアジーが、第一の、つまり支配的な国家のイデオロギー装置として設置したもの、それこそが学校装置であると考える有力な理由があるように思われるのである。この装置は実際、その機能において、かつての支配的な〈国家のイデオロギー装置〉、つまり教会に取って代わったのであった。〈学校−家族〉という組み合わせが、〈教会−家族〉という組み合わせに取って代わったと付け加えることもできるだろう。」202

重要!フーコーとも比較したい。

「〈学校〉は、幼稚園から、新しい方法にせよ古い方法にせよ、何年ものあいだ、子どもたちが〈家族〉という国家装置と〈学校〉という国家装置のあいだに挟まれてもっとも「傷つきやすい」年月のあいだ、支配的なイデオロギーのなかにくるまれた「ノウハウ」(フランス語、算術、博物学、諸科学、文学)や、あるいはごく端的に、むきだしの支配的イデオロギー(道徳、公民科、哲学)を子どもたちに教えこむ。十六歳ごろになると、大多数の子どもたちが、どこかで「生産」へと脱落する。これが労働者や小農民である。就学可能な若者たちの他の部分は学業を続ける。そしてなんとか途中までやってくるが脱落し、下級と中級の幹部、サラリーマン、下級と中級の役人、あらゆる種類の小ブルジョアのポストを占める。最後に残った一部分だけが頂点に達するのであるが、半失業的知識人に脱落するか、あるいは「集団的労働者に属する知識人」は別としても、搾取の担い手(資本家、経営者)、抑圧の担い手(軍人、警官、政治家、行政官、等々)、そしてイデオロギーの専門家(あらゆる種類の聖職者、その大部分は確信に満ちた「俗人」である)などを供給することになる。」204

学校という一本のレールと諸階層への分岐っていう図式は無理がありそうだが、労働者、プチブル、インテリ等の生産過程の記述としては重要。

「資本主義的社会構成体の生産諸関係の、つまり被搾取者の搾取者に対する、また搾取者の被搾取者に対する諸関係が再生産されるのは、大部分、支配階級のイデオロギーの大量の詰め込みのなかに含まれたいくつかのノウハウを習得させることによってである。資本主義体制の死活にかかわること重大な結果をもたらすメカニズムは、当然のことながら、広くゆきわたった学校のイデオロギーによって覆い隠されている。というのも、それは、支配的なブルジョア・イデオロギーの本質的な諸形態の一つであり、学校をイデオロギーの欠如した(なぜなら非宗教的だから)中立的な場所とみなすひとつのイデオロギーなのだから。」205−206

そうそう、その通り。ブルジョア・イデオロギーの本質は隠蔽すること、という理解はルカーチとも似ている。マルクスとレーニンはどう言っている?

「『ドイツ・イデオロギー』においてこの定式[=イデオロギーは歴史をもたない]は、全く実証主義的な文脈のなかで現れる。イデオロギーはそこでは、純粋な幻想、純粋な夢、つまり無とみなされる。イデオロギーのあらゆる現実性は、それ自身の外部に存在するのである。したがってイデオロギーは空想的な構造物と考えられており、その規定(スタチュー)はフロイト以前の著者たちにおける夢にかんする理論的な規定にきわめてよく似ている。」211

「フロイト以前」については『夢解釈』を読むべき。フロイトはそれに無意識の効果や工作をつけ加えた。アルチュセールも同じことをしようということ?

「ここで理論的な指標を示すために、私は、われわれの夢の例を再びとりあげ、今度はフロイト的な考え方に立って、イデオロギーは歴史をもたない、というわれわれの命題は、無意識は永遠である、つまり無意識は歴史をもたない、というフロイトの命題に直接関連づけられうるし、またそうでなければならないと主張したいと思う[…]。
 もしこの永遠ということが、あらゆる歴史(時間的な)を超越したという意味ではなく、遍在的、超歴史的、つまり歴史のあらゆる拡がりのなかでその形態が不変であるということを意味するとすれば、私はフロイトのこの表現を逐語的にとりあげて、無意識と全く同様にイデオロギーは永遠であると記すつもりである。」213−214

いいね

「第一のテーゼ イデオロギーは諸個人が自らの現実的な存在諸条件に対してもつ想像的な関係を表している。」215

「第二のテーゼ イデオロギーは物質的な存在をもつ。」219

「もちろん、一つの装置とその諸実践におけるイデオロギーの物質的な存在は、一個の敷石や一個の小銃の物質的な存在とは同じ様態を有するわけではない。しかしながら、新アリストテレス派扱いを受けることを覚悟のうえで(マルクスがアリストテレスに非常に高い評価を与えていたことを注意しておこう)われわれは、「物質(マチュール)という言葉はいくつもの意味で用いられる」、あるいはむしろ、物質は、最終審級においてはすべて「物理的な」物質のなかに根をおろした、さまざまな様態をとって存在している、と言いたいと思う。」221

アルチュセールの正統アピールにはうんざりするけど重要。

「われわれはパスカルの護教的「弁証論」のおかげで、イデオロギーの概念的図式の順序をくつがえすことを可能にするあの見事な定式を知っている。パスカルはほぼ次のようなことを述べている。「ひざまずき、唇を動かして、祈りの言葉を唱えなさい。そうすれば、あなたは神を信じるだろう」。」224

イデオロギーと行為と実践の関係について述べる文脈で。ジジェクもパスカルの話をしていた。

「それゆえわれわれは、一個の主体(ある個人)のみを考え、次のように言おう。この主体がもつ信仰にかんする諸観念の存在は物質的である。それは、この主体の諸観念が、当の主体の諸観念が属している物質的なイデオロギー装置によってそれ自体決定されている物質的ないくつかの儀式によって調整されている物質的ないくつかの実践のなかに挿入されている主体の物質的な諸行為であるという点において、そうなのである。」225

『マルクスのために』も思い出そう。重層的決定の議論を補強するような話だ。

「われわれはいまや、われわれの中心的なテーゼに達することができる。

 イデオロギーは主体としての諸個人に呼びかける
 このテーゼは、ごく単純に、主体によってしか、またさまざまな主体に対してしか、イデオロギーは存在しないという前述の命題を明確化することに帰着する。つまりわれわれが言おうとしているのは、イデオロギーは具体的な諸個人に対してしか存在しないのであり、イデオロギーの目指すものは主体によってのみ、つまり主体というカテゴリーとその機能によってのみ可能であるということである。」227

ラカンの主体・大文字の他者と比較するとどうか?イデオロギーは大文字の他者のディスクールなんじゃないか。

「われわれが言っているのは、主体というカテゴリーはあらゆるイデオロギーにとって構成的であるということであるが、しかし同時に、そしてただちに、主体というカテゴリーは、あらゆるイデオロギーが主体としての具体的な諸個人を「構成する」ことをその機能としている(この機能がイデオロギーを決定する)かぎりにおいてのみ、あらゆるイデオロギーにとって構成的である、と付け加えよう。あらゆるイデオロギーの機能が存在するのはこのような二重の構成の働きのなかにおいてであり、イデオロギーとは、この機能が存在する物質的な諸形態におけるイデオロギーの機能以外のなにものでもない。」228

「われわれが主体であり、またもっとも基本的な日常生活の実際的な儀式(握手、あなたの名前で呼ぶという行為、たとえ私があなたの名前を知らなくても、あなたを唯一の主体として認識せしめる固有名詞をあなたが「もっている」ということを知るという行為、等々)のなかで機能を果たしていると認めることは、つまりこのような再認はもっぱらわれわれが行うイデオロギー的な再認のたえざる(永遠の)実践の「意識」——実践の意識、したがって実践の再認——を与えるが、しかしそれはこの再認のメカニズムにかんする認識 connaissance(科学的な)を少しも与えない。」231

よくわからないが、この再認の概念が再生産の問題と関わっているのだと思う。精神分析的な言説にアルチュセールがオリジナルで付け加えているのはここらへんだと思う。行為と認識。科学哲学の文脈なのか?今村仁司『アルチュセールの思想』をまた読むこと。

「いまやわれわれは、かつてわれわれがイデオロギーの機能を描き出すなかで用いた時間性の形態は削除して、イデオロギーはつねに−すでに主体としての諸個人に呼びかけてきた、と言わなければならない。そしてこのことは結局、諸個人はつねに−すでに主体として、イデオロギーによって呼びかけられているということを明確化することになる。そしてそのことは必然的にわれわれを、諸個人はつねに−すでに主体である、という最後の命題に導く。」235

つねに−すでに。213−214ページあたりを思い出そう。

「それゆえ子どもは、生まれる前から、つねに−すでに主体であり、懐妊以後、子どもが「待たれて」いる種差的な家族的イデオロギー的な布置のなかで、またこの布置によって主体であることを割れ当てられているのである。この家族的イデオロギー的な布置は、その単一性において強度に構造化されており、またかつての未来−主体が「自己の」場所を「見出さ」なければならない、すなわち彼がまえもってそうである性的主体(男の子あるいは女の子)に「成ら」なければならないのは、多少とも「病理学的な」(この用語にひとつの割り当て可能な意味があると仮定して)この仮借のない構造のなかにおいてであるということは付け加えるまでもない。」236

アルチュセールにとって、ジェンダーとはひとつのイデオロギーであり、家族的イデオロギー的な概念である。

「もし宗教イデオロギーが諸個人から、彼らが「神の命令」、すなわち愛と化した掟に対して示す尊敬、あるいは軽蔑に応じて、彼らの目的地(永生と地獄)が異なっているという再認を得るとすれば、——もしすべてはこのように生起する(洗礼、堅信の秘蹟、聖体拝領、告白、終油の秘蹟、……等々のよく知られた儀式の実践において)のであれば、われわれは、キリスト教の宗教的な主体を舞台に登場させるこの「手続き」はすべて奇妙な現象に支配されていること、すなわちこのように多数の宗教的な主体が存在しうるのは、〈唯一の、絶対的な、もうひとつの主体〉、すなわち神が存在するという絶対的な条件のもとにおいてのみである、ということを指摘しなければならないのである。
 ふつうの大文字なしの主体 sujets と区別するために、大文字で始まる〈主体〉Sujet によってこの新しい特殊な〈主体〉を指すことにしよう。」239−240

これはラカンの「大文字の他者 l'Autre」でしょ

「これらのすべてのことはまさしく聖書(エクリチュール)と呼ばれるもののなかに明確に記されている。」240

西洋において、書かれたもの、エクリチュールといえば、まずは聖書のことなのかもしれない。デリダを読むときにも考えたほうがいいな。

「あらゆる神学的な考察が証明しているように、神は人間なしですますことが全く「可能であるはず」であるにもかかわらず、人間たちが神を必要とし、諸主体が〈主体〉を必要としているのと全く同様に、神は人間たちを必要とし、〈主体〉は諸主体を必要としているのである。さらにふみこんで言えば、人間たちのなかで神の姿の恐るべき転倒が行われる(諸主体が放蕩にふける、すなわち罪に陥るとき)にいたるまでに、神は人間たちを必要とし、大文字の〈主体〉は諸主体を必要とするのである。」241

ラカンの、他者も斜線を引かれているという議論に似ている。A/
アルチュセールを使ってラカンを読むようなかんじになっているけど、やっぱりラカンはキリスト教の話をしていたんだなということがわかる。斜線を引かれた他者 A/(表記できない。こういうの Ⱥ もあるけど)ってキリストのことだ

「この四重のシステムのなかにとらえられて、諸主体は「歩む」のであり、時には国家(の抑圧)装置からなんらかの別働隊の介入を誘発する「悪しき諸主体」は例外として、大多数の場合には「ひとりで歩む」のである。しかも大多数の(善き)諸主体は「全くひとりで」、すなわちイデオロギーに従って(その具体的な形態は国家のさまざまなイデオロギー装置のなかで実現される)順調に歩む。」243

フーコーの規律権力と比較すること。

「このメカニズムのなかで問題になっている現実、再認の諸形態(イデオロギー=再認/否認)そのもののなかで必然的に無視[否認]されている現実とは、実際、究極的には、生産諸関係と生産諸関係に由来する諸関係の再生産なのである。」245

ぼくも抜粋中に付け加えるときは[]を使うのでややこしいけど、これは訳者によるもの。重要だ
後の追記は、イデオロギー、国家のイデオロギー諸装置、階級闘争の関係を考えなければならないと提起がされてだいたい終わっている。これで終わり!


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