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「いついかなるときでも安心する」ためにはどうしたらよいか

本日の #板橋武研
「いついかなるときでも安心する」

武術のひとつの到達点は「いついかなるときでも『安心している』状態でいられること」。

困難な状況になると人は「不安」になりますが、「不安」はそれ自体が自分の力を失わしめます。
いかなる状況でも「安心」するためにはどうすればよいか。

【手がかり1「下げる」】

緊張することを「あがる」と言います。
これはまさしく身体の状態を表現しています。
不安になると肩が上がり、呼吸が上がり、意識が上がる。
こうなると、もはや何もできなくなります。
「上がっている」ことを自覚し、意図的に「下げる」ように持っていくのはひとつの手です。

【手がかり2「安心できる技を持っておく」】

どれほど強力な奥義でも、いざというとき「大丈夫かな…普段通りできるかな…」などという心境になってしまうようでは、技自体が不安の原因になってしまう^^
どんな単純でもいい。
いざというときに確実に使えるとわかっている技を持っておく必要がある。

付け加えると、「この技は確実に使える」と実証し腹落ちさせておく必要がある。

套路(型)のみの稽古で見落としがちなのはこの視点。
実際に当てたことがないから、本当に使えるのかどうか確証が持てない。
しかし、実際に当ててしまったら傷害罪^^
この矛盾を解決し、実証・腹落ちさせる方法論が必要。

【手がかり3「動くところを手がかりにする」】

全身を縛られ絶体絶命のような状況でも、身体には必ずどこかに動くところがある。まずそこを動かし、事態打開の手がかりにする。
例えば、指先はどんなときでもまず動く。指先が動けば掌が動き、手が動き、腕が動く。それを手がかりにして打開する。

これは「社会的な絶体絶命」にも応用できる。
「もうだめだ」と思うような状況でも「自分の身体」に立ち返ることができれば、事態打開のきっかけになり得る。
身体が動くなら、必ずできることがある。それをテコにして、自分の人生を立て直すきっかけにする。
身体が動くなら、あきらめることはない。

【手がかり4「まず相手の真意を知る」】

イエス・キリストの言葉は、武術的に参考になるものが多い。
例えば「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という言葉。
もし敵の意図が「右の頬を打つ」程度のことだとわかれば安心できる。
「なんだそんなことか。そんなら左もどうぞ」くらいサービスしていい^^

「相手の真意がわかる」ということは、左の頬くらいサービスしていいほど価値がある。
イエスは「誰かが右の頬を『打つ』なら」と言っている。『打った』ではないということに注意。
もちろんイエスは「誰かがあなたを殺すなら、あなたの家族の命も差し出しなさい」なんてことは言ってない^^

ついでに。
イエスは「汝の敵を愛せよ」と語った。
この言葉は、孫子の「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という言葉と同じことを言っている。

イエスが弱腰な人物などではないことは、神殿の前で商売をする人々にブチ切れて屋台をぶち壊しまくったエピソードからも明らかです^^

【手がかり5「いつでも逃げられると知る」】

不安を抱えたまま勝負に出るべきかどうか。
そうせざるを得ないこともあるが、それだと勝敗は時の運になる。
「逃げる」ことは常に選択できると知れば、安心できる。
逃げ方にも、一旦距離を取る・一時保留にするといったものから、一目散に逃走・完全撤退などいろいろ。

縷々書きましたが、「不安に陥っている自分を自覚し、安心している状態に持っていくためにはどうすればよいか」という方法論を持っていることは極めて重要です。

重要なことは「身体に立ち返る」「身体の声を聞く」ことです。
皆様のご参考になれば幸いです^^

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