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八卦掌の本質を見誤っていた

昨日は光岡英稔先生の兵法武学研究会、ハワイアン八卦掌GPCに参加。
またも「その先」が提示された。
ご指導に感謝いたします。

今回は特に、私の中国武術に対する「思い込み」で発生した「抜け漏れ」について考えさせられた。
それは「套路(型)・形」についての思い込みだ。

それがわかったのは、2人が基本姿勢のまま上の手を合わせ、下の手は袋竹刀(1m程度の丈夫な棒であればなんでもよい)をお互いに握って、テンションをかけながら走圏をする、という稽古のとき。

下の手が持っている棒をお互いにしっかり引きつけてテンションをかけておくことが最重要ポイントなのだが、私はなぜかこれができなかった。
引っ張っているつもりなのに、引っ張れていない。
光岡先生に引っ張られると、あっさり引っ張られてしまう。
私よりも経験の少ない人のほうがむしろうまいくらいだ^^;

なぜできなかったか。
八卦掌の基本姿勢を「型化」していたからだ。

型化せず、下の手を引っ張ることに注力すると、上の手のテンションが増加し、二者の中心が鮮明になる。
その状態で、相手のやっていることをきちんと感じ取りながら、その中心に従って円を描く走圏を行うと、「歩の方向」「下の手の引く方向」「上の手の押す方向」が全部異なるにもかかわらず、中心は揺るぎなく動かなくなり、自分と相手は「相対的に不動の状態」になる。
「テンセグリティ状態」とも言える。

この状態になるには、「自分」と「相手」が双方ともに自立すると同時に、双方ともに相手の状態を感じ取り続けなければならない。
自分だけでもだめ、相手を思いやるだけでもだめ、なのだ。

「型化する」ということは、「自分に閉じる」ことにつながってしまう。
基本姿勢を型化し、自分のことだけに閉じてしまうと、これができなくなるのだ。

私は、八卦掌の本質を見誤っていた…
と、痛感せざるを得ない稽古だった。

八卦掌の大前提を忘れてはならない。
創始者・董海川は「套路(型)を作っていない」のだ。

八卦掌の原初にあったものは、「原理・現象・法則」だけだったのではないか。
董海川が教えていたのは、こういうものだったのではないだろうか。

ただ、中国武術学習者は「套路(型)」で稽古をすることに慣れており、型のない武術というものを会得するのが難しい人が多かったのではなかろうか。
そこで、董海川の直弟子である尹福、程廷華、梁振圃などがそれぞれに「套路(型)」を作っていった、ということだろう。

「なぜ、八卦掌には膨大な数の流派があるのか」
この問いの答えもここにある。
「原理・現象・法則」を理解すれば、どのようにも応用できるからだ。

「形」というものは、「その形にしよう」としてつくられるものではない。
「自分」がおり、「他者」がいて、お互いに影響し合う「ちょうどよい緊張関係」の中で「その形になる」のだ。

この重要な大前提が、套路(型)の稽古ばかりやっていると、非常にしばしば見落とされることになる。
(だから「型の稽古をしていない人」のほうがうまかったりする^^;)

套路(型)の稽古を否定するわけではない。
むしろ非常に重要だ。
しかし勘違いしてはならないのは、套路(型)とは「結果」であり、その「結果」になるためには必ず「原因」があるはずだ、という点である。

「なぜ、そうなっているのか?」

この問いかけを忘れてはならない。

今残されている伝統的な套路(型)に「なぜ、そうなっているのか?」という問いかけを丁寧に向けていけば、そこには「原初の至宝」が眠っているはずである。

かほどに重要なご指導をいただいた光岡英稔先生に改めて感謝するとともに、ぜひ、より多くの方々に「ハワイアン八卦掌」を学んでほしいと念願する。
これまで見えてなかったものが見えてくると思う。

ブラジリアン柔術がこれだけ広まったのだから、次はハワイアン八卦掌が来るかもしれませんぞ^^

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