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「諦念」はどこからやってくるのか

「中谷くん、スルースキル高いよね」とよく言われる。いい意味でとらえれば、人間関係のめんどくさいところをほどよく受けながし、わるい意味でとらえれば、人の話を聞いていないということ。
(自分的には後者だと認識している。)

スルースキルが身に付いた理由としては「自分がいろいろと考えたところでなにも変わらないような物事について、そもそもあれこれ考えない」ことにしているからだろう。「悟りを開いているね」と言われる。「諦念」に浸食されているのだ。

「諦念」は昔っからこころの片隅に住みついていたような気がする。それがここ数年でウェイトがさらに増してきたように思う。どうにもならない問題については考えないという対処をとる僕だが、気がついてしまったことに対しては分析せずにはいられない。

そこで「諦念」が増してきた原因を分析してみると、気がついた直接の原因としてはコロナショックがあるのだが、それ以前に以下のことを発見した体験があった。

① 期待が裏切られたときの失望により、人は攻撃性をもつ。

② 価値観の多様化といいながら、人はある程度おなじ価値観におちつく。またはインフルエンサーの価値観を輸入して自分の価値観だと錯覚する。

③ 自分が長い時間をかけて考えたことは先人の知恵や古典、哲学としてすでに誰かが考えたことの場合が多い。

④ 人はそれほど人の話を聞かない。

⑤ こういう発見について人に話しても共感されないという「諦念」のフラクタル構造


勝手な期待が裏切られたときの失望により、人は攻撃性をもつ。

まわりの人を気にせずに好きなことをやっているときにこの問題がよく起こる。好きなことをやっているうちに「応援するね!」と言ってくれる人が現われたとしよう。自分としては応援してもらうためにやっているわけでもなく、ただ好きなことをやっているだけ。それゆえ、その好きなことの方針が途中で変わることがよくある。

そのとき、応援してくれていた人が「そんな方向に進むなんて思ってなかった。期待してがっかりした。」と、勝手に失望してしまうことがよくある。これはもうどうしようもない。

どうしようもない上に、この問題は頻繁に発生すると思う。僕の体験ではここ数年で3,4回体験した。最初は申し訳ないような気持ちと「別に期待や応援を望んだわけではないしなぁ」という戸惑いが混ざり合って、どうしようもなく居たたまれなさを感じていたが、慣れとは不思議なもので、3回目ぐらいになってくると「またかー」と動揺しなくなる。こうして「諦念」ができあがるのだ。


価値観の多様化といいながら、人はある程度おなじ価値観におちつく。またはインフルエンサーの価値観を輸入して自分の価値観だと錯覚する。

はじめてTwitterをやりはじめたのが中学生のころ。Twitterには星マークの「ファボ」がそなわっていた。顔も名前も分からないが、同じバンドが好きという共通点だけで話が盛りあがる。今となっては当たり前だが、当時はちょっぴり大人な世界に入り込んだ気がして熱中したのをおぼえている。

それから数年、Twitterの星マークは消えてハートマークになった。「評価経済」ということばが普及し、インフルエンサーと呼ばれる人たちがあらわれた。一昔前のいわゆる「テレビによって植えつけられた幸福像」とおなじように、「インフルエンサーと同じような価値観をもつという幸福像」がえがかれはじめた。Twitterというショッピングモールに流行りの価値観を買いに行くような感覚である。

そういった世界について否定も肯定もするつもりはないのだが、「インターネットによって価値観が多様化する」と信じていた世界が幻想だったことに哀しみを感じる。現状での残された希望はYouTubeのコメント欄だ。


自分が長い時間をかけて考えたことは先人の知恵や古典、哲学としてすでに誰かが考えたことの場合が多い。

これはもうめちゃくちゃよくある。遭遇するたびに「諦念」にみまわれる。

最近では、「自然な動機にしたがって手を動かした結果得られた学びこそが自分の中の単なる知識ではなく、活きた経験につながる。そのために、遊びと学びの接点を見出していくことが重要だ」などと考えたりしていたのだが、これは「構成主義」や「構築主義」とよばれる哲学の分野で、ピアジェやパパートがすでに理論として築き上げたものだ。

車輪の再発明は楽しいものではあるのだが、発明が目的ではない場合には事前のリサーチが重要である。だいたいの場合、体系的なものとして本にまとめられている。人類が前に進むためには先人の知恵をとっととインストールする方が効率が良い。だからこそ学校では体系化された教科を学ぶのだ。


人はそれほど人の話を聞かない。

コロナショックでいちばん感じていることだ。マスクがなくなることはしょうがないにせよ、トイレットペーパーがなくなるのは衝撃だった。ニュースや専門家の話ではなく、うわさや集団心理が人の行動を刺激するのかと思うと、人間という動物に「諦念」をいだく。

緊急事態宣言が出ても、会社に行かないといけない知人をみたり、感染者の出ていない地域に遊びに行く人をみて、これまた「諦念」をいだく。リモートで仕事ができるようになってきたとはいえ、社会の根幹は変わっていないのか。

人はだれの話を聞くのか。おそらく、自分の話しか聞かないのだと思う。自分がこうだと思ったものしか人は心のそこから理解することができない。


こういう発見について人に話しても共感されないという「諦念」のフラクタル構造

こうして、「諦念」が生まれるきっかけになった発見を挙げてみたのだが、こういう話を周りのひとに話してもまったくおもしろがってくれない。そういう体験がこれまた「諦念」を生む。

自分がおもしろいなーと思ったことを人はおもしろいなーと思わない、この体験を積み重ねていくと「諦念」にあふれ、人の気持ちや普遍的な真理などの自分の力では変えようのないものについては「変わらないからしょうがないよね」と、割り切れるようになる。


おわりに - 「諦念」を前向きにとらえる-

ここまで読まれてきた方は、「この記事を書いた人はなんて哀しいんだ!」「もっと前向きに生きようよ!」と思われるかもしれない。

とはいえ、僕は結構ポジティブにたのしい毎日を送っている。「自分の力がおよばない所は諦める」そのかわりに、「自分の力がおよぶ所はとことんこだわる」ことに集中しているからだ。

仕事のパフォーマンスを上げるために日常生活の合理化に頭をついやしたり、好きなデザインのパーカーを着たり、書きごこちの良いペンを探したり

手の届く半径1mを自分らしく作りあげていくために、「諦念」と積極的に向き合っている。

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