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芸術家のオートエスノグラフィー #11 〜地域における芸術家像と実存〜

#10 はこちら

1.芸術家同士のコミュニティー形成による個人の活動への影響

 林容子(2004)は、著書『進化するアートマネジメント』において、「欧米においてアートは個人の考えや個性を表現する重要な媒体であり、精神を開放し、自由にしていくものとしても捉えられている。つまり、アートは、生活に美を与えるばかりでなく、『市民社会』や『自由』と密接な関係にある重要なものである。」これに対し日本では、「アーティストの才能に対する理解も乏しく、尊敬心が希薄であると言わざるを得ない。」[林2004, p.22]と述べている。故郷である岐阜におけるに活動により、中島は地域とどのように向き合ってきたのか。

 2006年から2009年までの約3年間、中島は高校時代の同級生3人で「美術作家集団アカダマ(以下アカダマ)」を形成し活動した。メンバーは、陶芸家のSKと、画家で中学校教諭のYDであった。SKは愛知県立芸術大学、YDは筑波大学をそれぞれ卒業後に帰郷し、仕事をしながら作家活動を継続していた。中島も同様に、帰郷してから非常勤講師や寺務をしながら制作しコンペに出品するも落選。という活動を繰り返していた。当時、同級生は浪人経験者なども皆大学を卒業して間もない頃で、それぞれが進路について悩む時期であった。就職をきっかけに作家活動を辞める者が多い時期であるともいえる。今回は、美術系大学を卒業して間もない若手芸術家の協働での活動に関する記述を通して、芸術家のコミュニティー形成の実態を描き、個人の活動にどのような影響を及ぼしたかを考察する。

 東京から帰郷した中島にとって、美術を辞めるという選択肢はなかったが、このまま岐阜で制作、コンペ落選、また制作という流れにおいていつ成功できるかがわからない状況に変化をもたせたいと考えるようになった。SK、YDと酒を呑みながら美術のことや今後の人生について何度も語り合い、「1人ではできなくても3人だからこそできること(TJ GIFU2008,8記事)」と考え、専門分野の違う3人でアカダマという美術作家集団を結成した。SKはアカダマの活動について「自分の中では陶芸が中心で、アカダマはイベントやコラボとか1人ではなかなかできない活動ができて寄り道というか色々できるのもプラスになっている。(月刊オレイユ2008,2記事)」と語っている。芸術家は基本的に1人で全ての活動をしている。制作、個展、コンペ出品、さらにはギャラリーへの営業、国からの助成金を得るためのプレゼンテーションなど、いずれも孤独な闘いである。美術業界は、評価が非常に不明確な業界であり、自らの価値を高めていくために様々な活動を進めていく。

 中島は大学を卒業してから、久しぶりに会う知り合いや初めて会う人に「職業は芸術家」と伝えると、「普段はなんの仕事をしているの?」や、「それで本業はなんなの?」などの返答を受けることが度々あり、なんとも言い表せない悔しさを抱えていた。岡林は「伝統的にアーティストは人間と周囲の環境との間の仲介者」[岡林1991, p.2]と述べているが、現代社会、または地域において芸術家の存在意義とは何であるのか。と自らに問うようになった。この頃から中島は自らの肩書きについて考えるようになり、それまでは「彫刻家・僧侶」であったものを「ヒューマン」と称するようになる。このことをSKは覚えており、「いつも肩書きを悩んでたよね。どう思われたいかってことをすごく気にしていた。(SKへのインタビュー2015,9/29)」と回想している。肩書きは、自分を紹介や宣伝する時のひとつのツールであるといえる。中島はこの頃、自分が何者なのか、何者になりたいのかをずっと考えていた。また、芸術のプロになるイコール、芸術で食べていくためにはどうすれば良いのか。作家仲間も同様な意識を持っていたため、アカダマでの活動を、「岐阜のアートシーンは盛り上がっていないけど、それぞれに活動している人はたくさんいて、その点を繋げて線にしていく(月刊オレイユ2008,2記事)」と、自分たちと同じような境遇にいる作家たちを集めて、大きなムーブメントを作り上げていきたいと考えた。そしてそのムーブメントというのは、組合のようなものではなく、地域社会へ芸術家の存在価値を伝えるために、また、芸術家として生きていくために広く外へ向けて活動をおこない、芸術家が認められる街づくりしようとするものであった。そしてそれを、芸術家の協働において成し遂げようと考えたのである。

 「芸術のプロになる」とはどのようなことか、芸術で食べていくにはどうすれば良いのか。なぜなかなか収入を得ることができないのか。経済学者であり芸術家でもあるH・アビング(2007)は、著書『金と芸術-なぜアーティストは貧乏なのか?』において、芸術における収入が低い理由を5項目によって説明している。

1. 勝者がすべてを得るという原理(能力のわずかな違いが大きな収入の違いになる)。
2. 芸術以外には向いていないとアーティストは自らに対し信じている。
3. 金銭的報酬以外(地位や名声などのステータス)に向かう傾向がある。
4. 芸術には高い懸賞金が用意されていると考えておりリスクをとる性向がある。
5. 自信過剰と自己欺瞞(自分を過大評価し、自分に提供される報酬を過大評価している)。
6. 誤った情報(たゆまず努力をすればいつかは報われる)を与えられている。

H.アビング(2007)『金と芸術−なぜアーティストは貧乏なのか』p.193を要約

 それにより、多くの人々が芸術家を目指すため、結果として平均収入は他の職業の場合よりも低くなると述べている。そして、それにもかかわらずなぜ芸術家が魅力的で、「アーティストになりたがるのか」ということを以下で説明している。

1. トップクラスの収入がとてつもなく高いために、多くの人が芸術に惹きつけられる。
2. アーティストは自分が芸術以外の仕事には向いていないと思っている。
3. アーティストは他の職業の人々と比較して、金銭的報酬よりも個人的満足やステータスに関心を持っている。したがって、アーティストには低い賃金でも働く用意がある。
4. 平均的なアーティストは相対的に大胆であり、向こう見ずである。高い見返りのために、意欲的な人々は魅了される。
5. アーティストはしばしば情報を無視するという事例で示されたことはもっともらしい。自信過剰と自己欺瞞のために、芸術界は人口過密になる。結局、低い収入に対する最も重要な説明は、
6. 誤った情報である。この場合、低い収入の理由はアーティストの性格に求められるのではなく、社会がアーティストを目指す者たちをどのように欺くのかに求められる。執拗な神話が若者を芸術に誘惑し続けている。   

H.アビング(2007)『金と芸術−なぜアーティストは貧乏なのか』p.206

 岐阜という田舎であっても、芸術家を志す若者が多く存在し、それぞれが仲間意識を持ちつつも個人の活動に励んでいる。アビングが述べた内容に関して、芸術家である中島はアビングの説にいくつも当てはまるため、多分に理解することができるが、芸術に関わりのない人々にとっては、これらを知られていないため、アビングの言説は芸術家という実態の不明瞭さへの回答でもあるといえる。

 美術作家集団アカダマの最初の活動である2006年のグループ展「アカダマナイト」は、岐阜駅に隣接するビルの中にある貸しギャラリーで開催した。より多くの来場者を得るために、敷居が高いと思われることを避けたDMを制作し、告知に使用した。会場に設置して130枚回収したアンケート用紙には、「毎年開催してください」という意見が多数あり、アンケートの挨拶文に「いずれは、岐阜から世界と競い合えるようなグループ展にしていく」とアカダマのメッセージが記されていたからか、「こんな素晴らしい作品を無料でみせていただきありがとうございました。岐阜県人がんばってください!!(46歳女性)」や「岐阜というと、伝統と水と夏のイメージがあります。京都や鎌倉と違うカラーを出して下さい。(52歳男性)」など、「岐阜」という言葉が度々出てきた。継続してやっていく決意と、岐阜から発信することの責任のようなものを感じた。また、「小さな作品とかが買えると嬉しい。(26歳女性)」という言葉から、美術作品を購入するという考えを持った人が存在するという事実に喜びを感じたということを展覧会の反省会の中で話したことを記憶している。この展覧会で作品は1点も売れることはなかった。その後3年間同じ会場で3人展を開催したが、やはり売れることはなかった。

 「アカダマナイト」開催時に、当時の岐阜のみで販売されていた情報誌から取材を受け、記事が掲載されたことで、その後コラムを連載することとなる。「芸術家がいつも考えていることを文章にしてください。」という依頼であった。その後、地元の作家がたくさん集う店といわれていたカフェに3人で足を運んだことがきっかけで、そのカフェの壁画(写真1)を描くことになった。その後アカダマは展覧会活動だけではなく、「岐阜を拠点に活動するアーティストやクリエイターたちの交流の場としてはもちろん、これから活動を始めていきたいと考えている人達や、美術や表現に興味がある人達にとって良い刺激になるイベントにしたい(「バーアカダマ」フライヤーより抜粋)」と考え、岐阜で活動している作家やミュージシャンなどを募り、レストランバーを貸し切ったパーティー「バーアカダマ」(写真2)を開催した。そこではアカダマはホスト役に徹し、一般のお客さんを楽しませるための工夫を凝らした。2回開催したが、いずれもチケットは完売、大盛況で終えることができた。会場であり壁画を描いたカフェとレストランバーのオーナーSNは、「生活の全ては芸術性や創造性に満ちている。人生を楽しむ智慧のひとつとして生活の中のアートを味わう(SNへのインタビュー2015,10/10)」ことを営業のコンセプトに掲げており、アカダマ3人の意見を親身に聞いてくれて活動に対し非常に協力的であったことが成功に繋がったといえる。「バーアカダマ」を開催したレストランバーは、新規開店の際にアカダマとして看板を手がけることになった店でもある。

(写真1 アカダマが手がけた壁画)
(写真2 バーアカダマフライヤー)

 アカダマの活動は、岐阜を意識したそれぞれの作家が調和を生み出し、「岐阜に特化することで受け手も興味を持ちやすかった気がする。(YDへのインタビュー2015,9/29)」と、地元のメディアを生かし、カフェなどの一般の人が集まる場所を拠点とすることで敷居を下げ、地元作家同士の交流の場としても、今後作家になりたいと考えている人との交流もできた。この時に出会った作家とは現在までその縁が続いている。そういう点では一定の成果を出したと考えることができる。横地ら(2012)によると、このような活動は、芸術家自身の制作に対する考え方を変えるだけではなく、そこに関わった人々の美術に対する見方も大きく変えるという効果がある。「毎回テーマやフライヤーデザイン、個展当日、挨拶状に至るまで独自性にこだわり、にわかな活動との違いをはっきり差を感じるので、駆け出しの作家や街のクリエイター達から一目置かれる存在になったのだと想います。今振り返っても、現在増えに増えたクリエイター達もまだ追いついていないかもしれません。(SNへのインタビュー2015,10/21)」と、岐阜の作家たちを数多く見ている人物はアカダマの活動に対しこのように振り返っている。

 アカダマは2006年からスタートし、2009年の「アカダマナイトfinal(写真3)」までの約4年間をもって解散した。理由は中島以外の2人の作家が岐阜を離れることになったことがきっかけではあるが、それぞれが作家としての自己のイメージを明確に持ちつつあったといえる。「単純に自分の仕事(陶芸)に集中したいってのが切り出した理由だった。自分の制作がイメージに追いつけなくて焦りがあった。(SKへのインタビュー2015,9/29)」そして3人とも、アカダマの活動をしながらもそれぞれのキャリア形成を真剣に考え、それぞれ次のステップへ進むことになった。「私にはいつも苦しそうに観えたので他のアーティストより常に気にかかりました。数年をかけて見続けた中島法晃は、逃げずにひとつひとつ悩みながら腑に落ちるまで立ち向かい、表現することを止めず、自分の居場所をしっかりと確保する積み重ねを怠りませんでした。(SNへのインタビュー2015,10/13)」中島にとって、地元においてのこれらのアカダマの活動は、自分の拠点の土台作りという位置づけとなったのである。

(写真3 アカダマナイトDM)

 地元の一般の人々を多く取り込み、さらに芸術家のコミュニティーを作ることができたことに成果を感じつつ、一方では金銭面では多くのリスクを背負うことになった。当初の、アカダマの活動を通して芸術のプロになって収入を得るという計画は果たせなかった。さらに、アカダマの活動は美術業界に対しては意味を持たないことをも感じていた。なぜならSKの「自分の制作がイメージに追いつけない」という言葉にあるように、アカダマの活動は自己の制作とは違う位置づけであったからである。芸術家にとって最も大切なことは、自らの表現を追求し作品を制作することであるからである。作品が認められない限りは、どのような地域活動も、いわゆる「内輪」の楽しみでしかないのかもしれない。
 現代、SNSの普及により地方在住の芸術家であっても広く自身の活動を発信することができるようになった。SNSでのつながりによって活動の幅を広げている者も多い。ものの10年足らずで芸術家のプロモーションが容易になったと同時に、そこにアジャストする能力も必要になった。
 中島と同世代(40歳代)の芸術家には、「SNSとかめんどくせー」という者が多い反面、使いこなして活動を広げている者も多い。筆者自身は、「アカウントはもっているが頑張っていない」タイプである。柔軟で多面的、多角的に活動していく必要性を感じながらも、結局、作りたいものを作ることに向き合うしかないのである。

<参考文献>
・岡林洋(1991)『美学的見方と人類学的見方〜若干の現代美術の解釈のために〜』人文学 (150) pp.1-20
・林容子(2004)『進化するアートマネジメント』有限会社レイライン

<メディア掲載記事引用>
・月刊タウン情報ぎふ TJGIFU「街のアーティスト」(2008)
・月刊オレイユ「GIFFY」(2008)

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