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2024年11冊目『自画像のゆくえ』

松岡正剛塾の講師で来てくれた森村泰昌さんの著書です。

とてもとても面白かったです。

森村さんは、世界の名画(自画像)に肖り、それを自分で演じ、写真に撮るという芸術を40年以上している方です。

写真を見るだけでも楽しいのですが、元の自画像をどのように考察して、この写真にしたのかというのが更に興味深いです。

で、文章がうまい。

はじめに

井上陽水の傘がないの二番の歌詞から始まる

そして、その詩を考察する

当時オコトっぽいふるまいができない人の事を女々しいと否定的に評していた風潮に反発しているという。

そしてこの詩は「わたしがたり」だと言い、小林秀雄が小説は、言葉通り小さな物語(小説)だとある講演会で言っていたとつなげ、その起源はローマ時代だという。

続きが知りたくなる。

当時公用語であるラテン語ではなく日常語であったローマ語で書かれたものとして小説が始まり、18世紀にフランスのルソーの告白から本格的に広まったという。

なるほど。

しかし、ここまでだと知識。

そこから一気に私たちに近づいてくる。

わたしがたりのルーツは、カメラ付き携帯だという話につながる。

このカメラ付き形態のルーツは、カメラではなくプリクラだという。

そうなの?

とますます読みたくなる。

プリクラに行かなくてもプリクラを撮れるがコンセプトだったそうだ。

知らなかった!

そして20世紀は社員の世紀だったと結ぶ。

それが現在のセルフィーに繋がっていく。

そして、セルフィーとは何かと問う。

その原点が自画像だという。

そして自画像とセルフィーは何が同じで何が違うのか?と投げかける。

読みたくなっている自分がいた。

そして

鏡の中のわたしとしてファン・エイクを取り上げる

言われると当たり前なのだけれど、画家が自画像を描くときには鏡を見ながら描く。

しかし、昔の鏡は今とは違って性能が低かった。

だからおぼろげな自画像が多い。

鏡の進歩とともに自画像がはっきりしていく。

その後、デューラー、ダ・ヴィンチと続く

ダ・ヴィンチの有名な自画像は、本人ではないという

いわゆる哲人と言われている人は、こんな感じというのでなっているという学説を紹介する

賢くなった気がする

その後、カラヴァッジョ、ベラスケス、レンブラントと有名で、どこかで見たことある絵が続き、どんどん引き込まれていく。

そして自画像を描かなかった画家としてフェルメールを取り上げる。

有名な牛乳を注ぐ女は、実は愛の絵だという

フェルメールは、室内の絵が多い

数少ない風景の絵をどこで描いたのかと考察をする

これも推理小説のようで面白い

有名なゴッホの自画像から、日本が好きだったゴッホの話や、狂気や病気をかかえ葛藤を繰り返していた話、弟との関係などが続く。

インパクトが強い絵を描くフリーダ・カーロは、つながった眉毛の本当の意味という副題で、過酷な障害と自画像について語る。

その後、ウォーホールで西洋画家を終え、日本の自画像の話になる。

雪舟、北斎など明治以前から始まり、横山大観、松本竣介などを取り上げる。

私のように絵は好きだけれど、そんなに知識がない人にとってはいっぱいの情報が得られる本という側面もある。

そして、自画像と自撮りの話になる。

600Pほどの新書版サイズの本だけれど、たくさんの絵や写真があり、とても楽しめる本。

松岡正剛さんの塾では講演を聞いたのだけれど、とても話も上手で学びも多かった。

今回のテーマは意識と情報のAIDAというテーマだったのだけれど

森村さんは風景画を描くのがこのテーマと同じだという

風景を見て、絵を描く→(画家の意識)が(風景という情報)が出会って、その(AIDAに絵)ができる。自画像→この3つにゆらぎやねじれが生じる

まさにそうだと思った

▼前回のブックレビューです。

▼新著『業績を最大化させる 現場が動くマネジメント』です。



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