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【エッセイ】「死」を見つめる

わたしは「死」について研究している。

「研究している」とは言ったものの、そんな大それたことはしていない。
「死」と名のつく書物や論文を読んだり、それだけでなく、「死」にまつわるさまざまな事柄の文献を読んだり…。

まあ、「死を見つめている」くらいがちょうどいい表現だろうか。
もっと平たく言うなら、「死」について考えるのが好きなのだ。

勘違いされそうだが、別に死にたいから「死」について考えているわけではない。
わたし自身はものすごくのほほんと自分なりに楽しくわたしだけの人生を生きている。
のほほんと生きているが故にであろうか、「答えのないもの」をぐるぐると考える「癖」みたいなものがある。
ぐるぐると考えるのにちょうどいいテーマが「死」なのだ。

古来より、人は「死」に理由や答えを求めた。
さっきまで生きていたものが突如として活動を「停止」する。
それには、そうなってしまった理由があり、「死」とはどういうものなのか答えがあると、人はずっと考え続けてきた。

人が死んでしまう要因はもちろんたくさんあるが(例えば病気や事故や老衰など)、もっと根本的に、何故生き物には「死」というシステムが組み込まれていて、それが避けられないのかということや、体という「器」から解き放たれた、その「器」をそれまでせっせと動かしていた「魂」なるものはどこへ行ってしまうのかということについて、明確な答えは今のところないのである。
「死」とはなんなのか、それはそれぞれの国や民族、人々の「自分たちなりの解釈」に委ねられているわけだ。

とはいえ、別にわたしは「死」の答えを見つけたいわけではない。
ただ、わたしは「死」について考えられるのは「生きている」時だけだと思っているだけだ。
「死後の世界」で、わたしがわたしのまま、こんな風に呑気に「死ぬってこんな感じかあ」とのほほんと過ごせている保証はないわけだ。
「死」と正反対の状態である「生」の状態でしか、「死」を見つめることは出来ない。

わたしが、先述の「癖」を除いたとしても、「死」を見つめ始めたのは、思えばわたしの周りそこらじゅうに「きっかけ」が転がっていたからだと思う。

わたしの周りには昔から大人ばかりいた。親戚が集まるのは、誰かのお葬式ばかりだった。
「死」はわたしにとって、とても身近だった。

そのことももちろん、関係してはいるだろうが、もっと「死」がありありと目の前で繰り広げられたのが弟の誕生だった。

弟が産まれた時、わたしはもう12歳。
母は俗に言う高齢出産だった。

母は太陽のような、いるだけでその場が明るくなる人だ。
引きこもってボーッとしているわたしから見れば、すごく行動的な人でもある。

そんな母は出産予定日が近くなった頃から、体調があまり芳しくなかった。
管に繋がれ、ぐったりと横たわる母。
いつもの明るい母とは全く異なっていた。
まだ幼かったわたしにとって、それは余りにもショッキングな映像だったし、「死」という文字が脳裏をよぎった。
結果的に弟は無事に産まれたし、母はピンピンしている。

が、わたしは弟の産声を聞いた時、「嬉しい」・「良かった」というのとは別のなんとも言えない感情を覚えたのを記憶している。
幼かったわたしは、それがなんなのか分からなかったが、今のわたしならなんとなく分かる気がする。

眩しかったのだ。
「死」と引き換えに新たな命がこの世に生まれ落ちたのが。
全く正反対であるはずのこの二つの現象が重なり合うのが、目の前で繰り広げられて、目が眩んだのだ。

「確かにその二つは共存していて、表裏一体なのだ」ということが、無意識にわたしの心やら脳味噌やらにしっかり染み付いて、気付けば「死」を見つめるようになったのだろう。

「死」は、悲しくて恐ろしい。
でも、「死」という現象が待ち受けるからこそ、「生」という現象がきらきらと輝くのだとも、わたしは思う。

「死」はいつか誰にでもやってくる。
今のところ、避けられないんだから、しょうがない。
この世に生まれ落ちた時から、実は「死」はそこにいるのだ。

わたしは「死」が訪れるその瞬間まで「死」を見つめ続ける。

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