良い思い出と大切な思い出

なぜだか分からないけれど、なぜだか覚えている記憶があり、ある時に思いがけずその記憶によって心が揺さぶられることがある。

「なぜだか覚えている記憶」の理由を考えてみたときに、ポジティブにしろネガティブにしろ、感情が伴っていることに気付く場合もある。

例えば、小学生や中学生の時に、「●●先生がやたら厳しく注意をしてきた」という苦い記憶がある。当時は「大人が言うことだから」と自分を納得させていたが、30歳を超えてみると、それは「実は●●先生の未熟さゆえだったのだろう」と気が付くことも一度や二度ではない。

例えば、「私が発言した際に、〇〇先生が冷淡だった」という苦い記憶がある。当時はなぜだか分からなかったけれども、今になって思えば私なり私の発言なりが種々の意味で恐ろしかったのだろうと気が付くこともある。

そう気づいてしまったときに「あの先生はどうしようもない先生だったな」と思うこともあったが、今思えば「まあ、あの先生も人間だもんな」と感じられることが増えた。その大人たちも彼らなりに手いっぱい・精一杯だったのだ。

その当時の先生なり大人なりの年齢を思い浮かべると、その年齢に自分が徐々に近づいていることに思い至る。あの時の大人たちのような未熟さを、私は若い世代に示してしまってはいないだろうか。

そう思う中で、ふと小学校の時のS先生のことを思い出した。S先生は私が小学校3年生のときに隣のクラスの担任だった。大学を卒業したばかりの新任の女性の先生で、初めて受け持つのが私たちの学校の私たちの学年だった。

その先生のクラスにいた幼馴染に当時よく話で聞いたのが、「S先生はよく泣く」とのことだった。授業中にやんちゃな男子がやんちゃな振る舞いをしては泣く。授業中に居眠りをしている坊主がいて泣く。そういった話を何度か聞いた。私はS先生の涙を直接見なかったけれども、「大人も人前で泣くのか」と、不思議に思ったものだった。

私はS先生と直接やりとりをしたのは年に数回だったはずだ。しかしS先生には名前も顔も覚えてもらっていた。そう考えると、S先生は学年の様子を少しでも把握しようと相当な努力をしたはずだ。

翌年、S先生は確か5年生の担任になり、さらにその翌年、3年生の担任になった。そして、その年の3月に離任した。

退職だった。結婚して故郷に帰ることになったという。福井だったか、富山だったか、今では思い出せないが、北陸だったのだけは覚えている。

離任式のときに、S先生のスピーチもあった。他の先生に比べて少し長かったスピーチで、S先生は最初からずっと涙、涙だった。私たちの学年を受け持った時の思い出から話し始めて、最後に受け持った学年の思い出まで語った後、次のような話をした。

「3年間、楽しいことも大変なこともありました。しかしみなさんと過ごせたことは、私にとって、とても大切な思い出になりました。ありがとうございました。」

S先生が「良い思い出になった」とは一言も言わなかったのを子ども心に覚えている。「大切な思い出」という表現がどこかで私に引っかかったのだろう。

今考えれば、25歳前後のS先生が普段私たちに見せていた姿は、未熟な姿だったのかもしれない。しかし、それでもS先生もS先生なりに必死に日々を生きて、必死に私たちに向かい合っていたのだろう。そんな先生にとって、苦悩の日々・葛藤の日々は決して「良い思い出」だけではなかったのかもしれない。

今、S先生はどこで何をされているのだろうか。

翻って私が自分の25歳ころのことを思い出してみる。率直に言って「良い思い出」とはとても言い難い暗澹たる日々のことを思い出してしまう。「~で過ごした日々は良い思い出でした」・「~だった日々は良い経験でした」といったことは、今となってはとても言えない。当時はムード・雰囲気で口にしていたのかもしれないけれども。

2024年、3月、14日。令和も6年目を迎え、私ももうすぐ34歳を迎える。過去につけられた傷も、過去につけてしまった傷も、決して消えることがない。そういう過去の日々を「良い思い出」だったとも思えない。

でも、思えなくて良いのだ。

今ではそれらを含めて、「大切な思い出」なのである。

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