10代の「妄想」、20代の「思想」

唐木順三氏の著書に『自殺について』というものがある。自殺といっても金や恋愛のためのそれではなく、「哲学的自殺」というものが話題になっている。なぜ近代的知識人は、哲学的・思想的に挫折し自殺を決断したのか。そしてなぜ知識人のなかでも特に青年が自殺をしたのか。この問いに対して著者は、日本においては輸入された近代思想と現実の社会環境との矛盾、また論理的思索の手段として極度に不適当な日本語の性格が、純粋な青年たちに人生の意味を見失わせたからだとしている。


この話自体はよくある話で、高校の現代文の授業や文学史の教科書によく書かれていることだ。誰しも心得ている常識ではないかと思う人がいても不思議ではない。しかし、この本の面白さはこのような常識的見解を、私たちにも無縁でないことを示している。近代の青年たちが自殺によって解決しようとした問題は、「そうした危機は過ぎ去った」と自負している私たちの日々の生活にも、影を投げていることを明らかにしてくれる。


例えば筆者は次のように述べている。

「言葉に酔うということは、およそ青年期のひとつの特性といってもよいだろう。……こととことばの未分離の世界が、青年期にいたって崩れてくる。言葉が事を追いこし始める。抽象の世界がほのぼのと兆してくるわけである。カントとかゲーテとか、ニイチェとかボオドレエルとか、そういう連中を友人か知人の如くに思い始める。……自分と世の中とが区別せられてくる。」


これは若者の自我の目覚めの描写だ。著者の言うようにそういう経過は多かれ少なかれ、若者が必ず通過する道であり、私たち自身にも覚えがあるはずだ。

自我の目醒めは言葉の抽象性を媒介として成り立つので、言葉に酔うことは抽象世界に生きることになる。しかし、青年期に抽象世界に生きるのは、決して不自然ではない。人間が人間として生きるに必須な条件なのだ。


若者は本能的にそのことを知っている。中高生の時期は誰にとっても「自分がどこまで人間になり得るか」という命題を試す場所である。このとき、大人たちはこのような若者を非難することが多い。最近では「中二病」という言葉も人口に膾炙している。しかしこういう人々は青年時代に夢見た可能性以上のものを、実人生からは得られないことを忘れている。青年期に夢想の世界を持たない人生は、はじめから可能性を持たないのと同じである。


筆者はこうも続ける。


「自己が自己を批判し、現実の自己を容赦なく虐待し始める。それによって自己は思う存分飛翔することが出来る。現実の自己の属している世の中、社会の不合理、矛盾に勢いこんで対立反抗することによって、理想の世界を自由に構想し始める。そうして思想的な書物への渉猟、自分の気に入る言葉の発見、それの奔放な駆使。そうすることによって、自分が、誰にも解らないような高尚な思想を抱いていることを妄想し、唯我独善の高貴と孤独とを味わう。」


この部分に少し自嘲を含んでいるように思うのは、やはり筆者自身、そして私自身がそういった「思想的な」青年だったからだろうか。


このような妄想・夢想は若者にとって、まったくもって健全な生理である。極言すれば、人類の宝とされる天才の仕事も、結局意志と忍耐とさらに幸運に支えられた「妄想」にほかならないのだ。


しかし、いつまでも「中二病」のままでは社会の中で生きていくことはできない。若者の「妄想」が、実人生の中で「思想」になって行かなければならない。若者の「妄想」がそのまま誰からでも認められるようになることはめったにない。そうではなく、若者の「妄想」が彼・彼女自身の主体性を失わずに、そのまま人生と関連しながら正確さを得ていく過程を歩むことが必要なのだ。


しかしそのためには若者が作り上げた「妄想」に対し、賛成するにしろ反対するにしろ、とにかく理解される環境にいることが必要である。社会において、「中二病」が受け入れられるムードが必須なのである。青年時代の「妄想」をそのまま「妄想」として捨て、その代わり雑多な常識を身につけただけの「大人」に私たちはいやというほど出会う。それはほかでもなく、私たち自身がそうだからこそなのだろう。


私個人としては20歳を超えて「妄想」の領域にいるのは非常に未熟なことであるように思うが、10代の若者には思う存分「妄想」をさせてあげたいと思っている。そういう「妄想」を受け入れる素地に私がなれたらこの上ない喜びだ。


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