洒落怖と遠野物語
皆さんは洒落怖(しゃれこわ)をご存じだろうか。洒落怖とは厳密にいえば恐らく2chオカルト板のスレッド「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」を起源とした種々様々な怖い話の事である。しかし、最近ではその定義がより拡大され、洒落にならないほど怖い話であれば洒落怖と呼ばれることも多い気がする。そのジャンルは多岐にわたり、神隠しから妖怪、心霊、ヒューマンホラーまでカバーする。2chの特徴として最たるものは匿名性である。洒落怖もその例に漏れず、作者が不詳であるからこその真偽の不明さに魅力がある。フィクションだと思えばそうも思えるし、ノンフィクションだと思えばそんな気もする作品もある。
さて、このサブカルチャーと遠野物語とがどう関係があるのか。遠野物語とは、国文学者の柳田邦男が岩手県遠野地方の民間伝承をもとに編纂した短編集のような作品である。
先日暇だったため、遠野物語の口語訳を読んでいたのだが、色々と気付いた点があった。
似ている。物語の雰囲気が洒落怖に似ている。
そもそも遠野物語が取り上げている内容は神、妖怪、呪いといった人智を超えた何かである。具体的には例えば神隠し、迷い家、座敷童といったストーリーもある。全てとは言わないが、洒落怖の中には以上のような内容を取り扱った作品も多い。そして、遠野物語には「何となく日本人が知っている怖い昔話、不思議な話集」というイメージを抱いた。遠野物語を読んだことがなくても座敷童、神隠しといったテンプレート的な話を聞いたことがある人は多いはずだ。
遠野物語の口語訳では注釈が付いており、神隠しを異民族の人攫いや誇張表現と解釈するなど科学的に民間伝承を解明していこうという試みが見られるのも興味深い点である。遠野物語の面白さは柳田邦男という学者が真面目に民間伝承を検討したという点である。遠野物語に記述されている物語の多くは現代の科学に照らして考えると非科学的なものであるが、「昔は妖怪とか神が山に住んでいたのかな」と思えなくもない内容であった。少なくとも、この書籍が刊行された100年前に遠野地方に住んでいた人々は実際にこれらの伝承を少なからず信じていたのだろう。日本全国に神社が存在し、様々な祭りが行われていることからもその信仰が強かったことが窺える。
洒落怖は、ほとんどが現代に起きた実話としてストーリーが進行していくので、こういった非科学的な民間伝承を如何にリアリティを持たせて物語の中に織り込んでいくかが勝負となる。(洒落怖をフィクションと仮定するなら)
ここからは完全に僕の主観になってしまうが、日本の山や森は我々の日常とかけ離れたところにある印象が強い。距離的な問題ではなく精神的な問題として。特に夜の山は本当に怖い。この感覚は、おそらく日本古来からの山岳信仰をはじめとしたアニミズムに通じる部分がある気がする。我々の先祖は山や森を理解できないものとして扱い、その恐れは後に信仰へとつながっていったのだろう。潜在的な意識として自然は未知で恐ろしいわけである。それを上手く文章化して読者に恐ろしさをイメージさせたのが一部の洒落怖作品である。
僕は民俗学専攻でも日本文学専攻でもないので詳しいことは分からないが、日本人が何となく知っている怖い昔話を一種のテンプレート、フレームワーク化させたものが遠野物語、そしてそれを現代の文脈に合わせて改良し、肉付けしていったものが洒落怖なのだと思う。
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