天気の子から考えるオタクの定義

 観客動員数1000万人ーー7月に上映開始、異例のロングランと興行収益を記録した新海誠監督最新作の天気の子。ストーリーに対する考察は秀逸なものがネット上にいくつも存在するため、あえて僕が書く必要もない。それに、僕は天気の子を見て、そこに統一して描かれた思想のようなものを感じることができなかった。というより、様々な思想が混在しすぎておりそれを抽出して文章化するという作業が僕には不可能である。そのため、このnoteでは僕が天気の子に対して主観的にどのように感じたか、そのようなことを書いていきたい。

 note自体、そしてこの記事自体が僕の自己満である。自己満をネット上に公開するには幾分かの勇気がいる。しかし、エヴァンゲリオンの監督である庵野秀明はネット上の作品論争に対して「便所の落書き」と評した。僕はこの表現が好きである。僕は作品論というのは本来、作者の思想や背景に存在する社会情勢を深く読み解いたうえで行う崇高な行為だと盲信していた。ところが彼の表現から言えば、コンテンツの受け手が行う考察に社会的な意味は存在しないと。便所の落書きレベルの猥雑なものであると。そう考えると、作品に対する考察を行うハードルが非常に低くなる。それをこうしてネット上に公開する作業も同じである。

ーーー以下、ネタバレを含みますーーー

 天気の子はオタク向けコンテンツなのだろうか。この作品で特に僕の記憶に残ったのは以下の二点で、

1. ストーリーの根幹におけるあからさまなぶっ飛び具合

2.夏美「私の胸見たでしょ」みたいな手垢のついた表現

といった辺りが好き嫌いの評価が分かれるところかつ「オタクっぽさ」が滲み出る描写だろうか。観客動員数が1000万人を超えたわけだから、普段アニメを見ない層もかなり見に来たと考えられる。(僕のように複数回見に行く層もそれなりに存在するため、実際の数字は異なるだろうが)そもそもオタクとは何だろうか。先ほどオタクっぽさに関する2点を挙げた。2点をより具体的な言葉で言い換えれば前者は「ストーリーの進行のために非現実性を受け入れられるか」後者は「アニメでよく用いられる手垢のついた表現に喜ぶことができるか」となるだろう。

1. ストーリーの根幹におけるあからさまなぶっ飛び具合

そう。天気の子のストーリーはぶっ飛んでいる。リアリティのある東京の描写や人間模様とセカイ系のストーリーとの対比というのもまたこの作品らしさが出ていて良いのだが、このストーリーのぶっ飛び具合を受け入れられない人々もいるだろう。僕はこのストーリーのぶっ飛び具合を受け入れられるか受け入れられないかが一種「オタク」かどうかを判定する道具になると考えている。多くのドラマ、ノンフィクションとアニメが著しく異なる点として考えられるのは「ストーリーのぶっ飛び具合」言い換えれば、実写では表現しずらい「SF性」である。絵であり2次元であるからこそどのような表現でも許されるのだ。極端に物理に従っていなくても良いし、全く現実では再現不可能な妄想上の技術を表現することもできる。天気の子の作中には科学を無視した描写が無数に登場する。この表現が好きかというのは人によるところが大きい。アニメを見るうえでは科学を超越した表現を受け入れなくてはならないし、オタクはこの表現を無意識に受け入れているのである。SF性の高い妄想は、表現者の自己満足で全く意味のないことなのだろうか。僕はそうは思わない。海底二万マイルで知られる作家、ジュール・ヴェルヌが遺した「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」という言葉がさすように、天才的な作家のSFが未来の科学を予見するというのは否定できない事実である。ドラえもんの中で登場した秘密道具の中で、現代では当たり前のように我々が日常的に使用しているものも少なくないのだ。

 2.夏美「私の胸見たでしょ」みたいな手垢のついた表現

 後者のこの表現はやはり嫌う人も多いと思う。そもそも夏美というキャラ自体が割と男性のイデアを結集させて出来たみたいなものであるため潜在的な不快感を感じる人も少なくないだろう。しかし僕はこの表現は必要だと思っていて、この映画がアニメ映画であることを担保する要因であり、サブカルチャーに属しているということを自己主張する大切な表現である。「私の胸見たでしょ」は、従来のアニメ作品から幾度となく用いられてきた手垢のついた表現であり、この表現が出てくるということは「予定調和」だということである。ウケる層には必ずウケる安定的な表現。しかし、どこか男性向けな、ある種の「キモさ」を演出してしまう諸刃の剣ではある。この表現は無かった方が良かっただろうか。この表現が無いと天気の子は本当に「一般向け」の作品とならざるを得ない。僕はオタクなので「一般向け」の作品を見ていると何となく心が休まらない感じがする。というより、オタク向けコンテンツを消費しているときに感じる安心感が実家で昼寝してる時の安心感と似ていて心地がいいのだ。オタク的表現はオタクをオタクたらしめ、安心させる効能を持つ精神安定剤なのであり、合言葉なのである。

おわりに

今回は天気の子の中に登場した表現を取り上げ、「オタクらしさ」とは何かを考えた。僕は「ストーリーのぶっ飛び具合を受け入れられるか」「予定調和を喜べるか」が重要な指標であると考える。ただ、オタクっぽさを保つこの作品が広く世の中の人々に受け入れられたのは、圧倒的な細部へのこだわり、表現へのこだわり、ある種テンプレ的なラストシーンへの感動の波をしっかりと盛り込めたからであろう。宮崎駿作品と比較するとかなり新海誠の作品は性格が異なる。ここに関してはさらなる考察のし甲斐がある。

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