母のお望み通り

「家事が大変だ」
「育児の大変さをわかっていない」

そういう発言をする女性に対してどんな感想を持つだろうか。

専業主婦としての能力が低い、自業自得だ、と言って嘲笑するだろうか。

可哀想に、自分が彼女のパートナーだったらそんな思いはさせないのに、と同情の念を寄せるだろうか。

僕は両方だ。僕の母親がそういう女性だったからだ。

僕が子供の頃から母は疲れっぽい人で、パートで働きに出ていた時などは特に、家では寝ていることが多かった。僕も非常に手のかかる子供だったが、「お母さん、お腹空いた!」という言葉に「疲れてるから自分でなんとかして」と返されると、小学校高学年か中学生くらいだったながらに複雑な思いが胸に渦巻いていた。
「男の子でも料理くらいできるようにならないと」みたいなことも言っていたが、当時の僕の男女平等に関する知識など、「ドラえもん」の単行本で、料理上手な出木杉にのび太が嫉妬して家事が得意になる道具でお手伝いを頑張る回を読んだくらいのものだった。
父と母の夫婦仲もかなり悪かった。父は母が作る食事や(僕たち兄妹が荒らした)家の中が片付いていないことに文句ばかり言っていたし、それが口論になってエスカレートしていくと、食器とか、僕が小さい頃持っていたウルトラマンの怪獣の人形とかが、空中を行ったり来たりする迫力の大バトルに発展するのだった。僕と妹は毛布を被って震えていた。お父さんとお母さんが喧嘩するって、子供にとっては大地震や台風や火山の噴火と同じレベルの天変地異だ。その頃から僕は心の何処かで「ここではない何処かで、新しい家族を作りたい」「自分に彼女や奥さんができたら大切にしよう」そういう決意を固めていったのかも知れない。

高校生くらいの時に母親が出て行った。家事はみんなでやった。最初の頃は学校が忙しくて妹に任せすぎてキレられたので僕も頑張った。子供の僕等が大学生高校生になったこともあって家の中は少しは片付いてきた。飲食系のアルバイトを経験したお陰で、母のお望み通りちょっと料理もできるようになった。
でも僕はモテなかった。理由はたくさん思いつき過ぎてわからない。僕は人生のその時その時で気持ちを寄せていた女性が最高の人だったと信じていたつもりだったが、熱を上げれば上げるほど、その感情の炎は女の子の拒絶とともに自分に降りかかってきて大火傷をする。
「他に好きな人いるから」
「もう付き合ってる人がいるから」
それはみんな僕より顔立ちが良くて、社交性のある男だった。やんわりとした拒絶、激しい拒絶、忌避や嫌悪を含んだ拒絶。
大切にしたいという感情はあるのに、大切にする方法がわからない。野球選手になりたいのに、野球のルールを知らないみたいなもんだろう。そもそもこの「大切にしたい」って感情意味あるのか?ただのエゴか性欲じゃないのか?

離婚した母はたまに父に内緒で家を訪ねてくることがあった。子供の顔は見ておきたいのだろう。妹は顔を合わせるのも嫌がるので、僕がいつも話し相手になっていた。
母は昔からの情緒不安定が悪化して、心療内科に通院しながら生活保護を受けていた。僕と数か月に一回、電話で話したり顔を見せに来るたびに「親戚の伯母さんの家は家庭内暴力がひどい」とか「あそこの伯父さんが仕事をリストラされた」とかそんな暗くなる話題ばかり持ってくる。悪意が無いのはわかっているが、これが記憶に残っている僕と母の最低な気分になったベスト1位ブッチギリの会話だ。

「アンタ、彼女はいるの?」

「・・・いないよ。なんか、理想が高いみたいでさ。」

「アンタのお父さんだって私みたいなブスと結婚したんだから、アンタだってそのうち諦めがつくようになるわよ。」


最近、就職した。人生初の正規雇用だ。周りのお世話になった人達は、
「頑張って働いて、いっぱい稼げば良い子が見つかるさ!」
と励ましてくれる。
「そうだといいな」と希望を持つ反面、
「本当にそうかなあ」と疑念もある。
もし奇跡か妥協かで僕に彼女が出来て結婚まで漕ぎ着けたとしても、映画のように「2人は幸せなキスをして終幕」ではない。現実の夫婦生活は毎日のゴミ出し、洗い物、子供が生まれれば保育園の送り迎え、学資金の捻出、終わりない雑務タスクの連続だ。その中でどれだけの夫婦が「パートナーを大切にしよう」というモチベーションを維持できるだろうか。


『チャーリーとチョコレート工場』や『アリス・イン・ワンダーランド』で有名な映画監督ティム・バートンの『ビッグ・フィシュ』は僕の人生で絶対に超えられない好きな映画作品不動のベスト1だ。主人公の父親、エドワードは若い頃から突拍子もないウソで人々を楽しませるのが大好きな人気者。エドワードはサンドラという女性と出会い、花畑いっぱいの黄色い水仙の花をプレゼントしてプロポーズ。そして2人は結婚する。

ところが『ビッグ・フィッシュ』から10年余りの時を経て、ティム・バートンは『ビッグ・アイズ』という作品を発表した。それは主人公のマーガレットが夫のウォルターから逃げ出すためのドロドロの離婚法廷裁判の映画。おそらくプレイベートで長年連れ添ったヘレナ・ボナム・カーターとの破局を経ての作風の転換とも解釈できる。
「嘘つき男が妻と生涯愛し合って添い遂げる」
「嘘つき男が妻に三下り半を突き付けられる」
という余りにも真逆のストーリーになったこの流れは、どんなに美しいラブストーリーの紡ぎ手でも、現実の結婚生活の前には為す術なく敗れ去ってしまうというモデルケースなのかもしれない。


僕の父は母との仲こそ最悪だったが、僕達兄妹に手を上げたりすることは全く無かった。僕が母と同じように精神を持ち崩しても、何も言わずに毎日飯を食わせてくれた。女性を大切にすることと、その人が立派な人間であることには関係がないのだろう。社会人になって、父が喜ぶことをしたいと思う。それはやはり孫の顔を見せることなんだろうけど、そうなると母の予言の通り、愛しいとも美しいとも思わない女性と仕方なしに結婚して家庭を作ることになるのかも知れない。何処かに矛盾を感じている。

映画や小説のように熱烈に誰かを愛することに意味はあるのだろうか。僕も若者とは言えない年齢に差し掛かってきたけれど、そんな青臭い問いに答えを出しかねている。人間のオスとメスは、子孫を作って何年かすると諍いあうようにプログラムされているのだろうか。僕も自分の父と母のように、努力の果てに結婚して子供ができたとしても、結局は諍いあって離婚するのだろうか。自分の子供に僕の人生のリプレイをさせるのだろうか。
自分の運命の星から脱出するためのロケットが何処かに存在して欲しいと願う反面、愛にできることはもうそんなに多くはないのかも知れないという予感、それを否定する材料を探すパワーが無くなりつつあるのを感じている。

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