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個人の発信は、「綺麗なメディア」にしなくていい

私は個人のコンテンツが大好きで、その中でも一番好きなのが文章コンテンツだったりします。

自分が記事を書かない日も誰かしらのnoteを読んでいるし、「ああ、この人の文章いいな~」って思えるクリエイターに出会えるとめちゃんこ嬉しくなるんですよね。


発信者側としても読み手側としても、noteというプラットフォームは「個人の発信」をすごく理解してくれている(むしろ研究しつくしている)サービスだなと感じることが多くて、こんなに安心して自分のことを書ける場所は他にないんじゃないかと思っています。


noteは従来のブログサービスと違っておしゃれさもあるし、なんというか、語弊を恐れずに言えばヘンな人が棲みつきにくい場所なんですよね。

いかにもな情報商材アフィっぽい発信をしている人は自然と淘汰されていっているし、あやしい発信をしている人たちは結局noteが続いてないように感じます。

noteを日常見ている人って情報リテラシーが高いから、そういうのに引っかからないのかもしれないね。


じゃあ、そんな居心地の良いこのnoteというプラットフォームの中では、どんな人が「愛される発信者」になりやすいのかな?と考えてみたんです。


noteに入り浸っていると、「この人の記事noteっぽいなぁ、好きだなぁ..」みたいな感覚を持つことがたまにありませんか?

このnoteっぽさっていったい何なんだろうって改めて考えてみたんです。なんか、目に見えないけど安心して居られるカルチャーがここにはありますよね。


私は個人的に、クリエイターがつくる「綺麗じゃない発信」がnoteをnoteたらしめているんじゃないかなと思っているんです。



「綺麗じゃない発信」とは


じゃあ、「綺麗じゃない発信」とはどういうことなのか。ちょっと言語化を頑張ってみたいと思います。


有名どころのnoteクリエイターだと、私は作家の岸田奈美さんやライターやしいたけ占いのしいたけ.さん、漫画家のカワグチマサミさんの文章が好きなんですが、ちょうどよく生活感を感じるのが彼らの魅力だなと思うんです。

(みんな面白い文章書いているのでぜひ読んでみてほしい。)


愛されるnoteクリエイターとして残っているたちはみんな「個」を感じる発信をしていて、画面の向こうに人がいることがジワッと伝わってくるんです。

しいたけ.さんなんて顔出ししてないですけど、ちゃんとしいたけ.さんを感じる文章なんですよね。あ、この人ってちゃんと生きてるんだなって思うんです。

マツコ会議で特集されて姿が映った時に(顔は伏せられてたけど)、私、「そうだよな、この世界にしいたけ.さんはいるよな~」と思ったんですよね。

テレビに映るしいたけ.さんは、あの文章の謙虚さも愛も全部そのままだったんです。あ、しいたけ.さんだ。って、スッて受け入れられたような感覚でした。

岸田奈美さんがパラリンピックの放送のゲストで招待されてたときも「あ~岸田奈美さんだ~」ってなりました。あのまんまだな!と。


「個」を感じる文章ってなんかよく分からないけど安心するんですよ。

岸田奈美さんやカワグチマサミさんは自分の生活をまるごとコンテンツにしていて、しいたけ.さんは文章の中に「ちょっとだけ僕の昔の話をさせてください。」とことわった上で自分の話をされるタイプ。

3人とも自分の隣で話してくれているような文章を書かれるんです。

分かる分かる、と読み手のこちら側が画面越しにうなずいてたりすることもあって。


こういった発信スタイルって、発信者と読み手のあたたかい人間関係がつくられやすいんですよね。

読んでて「怖さ」や「冷たさ」がないから、あ、この人の言ってることは信頼できるなとか、この人の話はいつも面白いなと思える。情報じゃなくて、人にファンがつくんです。

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