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角野隼斗氏の「野心的挑戦」を多面的に考えてみる 〜すみだクラシックへの扉#22の感想を中心に〜


※6/8  <追記4>末尾に記載
※5/25 おまけ2途中にYouTubeの追加埋め込み
※5/23  <追記3>「ピアノ協奏曲第1番」第2楽章末尾に記載
※5/20 <追記2>末尾に記載
※4/29 <追記1> ソリストアンコールの後に記載

このnoteの中心は新日本フィルハーモニー管弦楽団「すみだクラシックへの扉 #22(土)」@すみだトリフォニーホールの感想です。
同プログラムのツアーはこれからも続くため、ネタバレを厭われない方のみお読みください。
コンサートに行かれる方の場合、新日本フィルのプログラムのダウンロードページを事前に読まれると参考になりますので、それだけDLしてnoteは読まずに引き返して下さいませ。



はじめに

2024年4月13日という日は、角野隼斗氏が行った複数のチャレンジが一気に露わになった日でした。
一つ目は、「題名のない音楽会:60周年記念企画①角野隼斗「ラプソディ・イン・ブルー」の音楽会」での弾き振り。(こちらは同番組「音楽への帰り道」
そしてもう一つは、NHKサタデーウオッチ9の新テーマ曲を小さめのオーケストラ編成で作・編曲されたこと(編曲は関向弥生氏との連名)。インタビュー関連の記事はこちらで、ミュージシャンクレジットはこちら

その直前のカナダ公演に向けてのインタビューのタイトルも「怖さを楽しさに変えて世界で挑戦し続ける音楽家 角野隼斗さん」というもの。

「題名のない音楽会」で胸に挿していたガーベラの花言葉が「限りなき挑戦」「前向き」だとご紹介下さったPOSTもありました。

実は、私がこの「クラシックへの扉」でのチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(以下「チャイコン1番」)を聴いた直後の休憩中、余りにも驚いて思わずThreadsに投稿したのか下記です。

自身の得意なタイム感や表現を封印してザ・クラシックという表現に学生の様に真摯に挑み、現時点ではソリストの自己表現として完成させる気がないという、ある意味もの凄い野心を感じて改めて驚きを覚えた。

「題名の〜」でのガーベラの花言葉は知りませんでしたし、カナダのインタビューは読んではいたものの日本滞在も多く少々大袈裟に感じていた位だったのです(拠点を完全に移したというより実質二拠点なので)。
が、「チャイコン1番」の演奏を聴いた直後に「挑む」とか「野心」とか…これまで角野氏には余り形容したことが無い言葉が溢れてきて、後から自分で驚きました。
たしかに「題名の〜」での弾き振りや「サタデーウオッチ9」でのオーケストラ編成も挑戦には変わりないのですが、これまでの角野氏の歩みからは想定内で、ステップアップの一つという感じ。
もちろんそれらも普通からみれば飛躍のある「挑戦」になるのでしょが、常の進行スピードが早いので「慣性としては想定内」という感じなのです。

「題名の〜」での弾き振りについては、指揮をされる以上は「俯瞰的・マクロ的」視点のため、演奏も当然そちら寄り。
コントラバスの即興がなかったらオケ全体を含めてあれ程の一体感と高揚感に至ったか疑問にすら思ってしまうのですが、そこからは、指揮をしながらも「内側から・ミクロ的」な表現で、俄然本領発揮!!!

(上記、オーボエと書いてしまいましたが間違いで冒頭のクラリネットのこと、詳しい方によると、本来ガーシュウィンが書いた楽譜通りの演奏になるそうです)
私がここに書いた「ヒエラルキーからの解放」とは、指揮者のいないジャムセッションのような空気感のことです。
この熱気ある一体感の醸成は、角野氏の「指揮によるもの」とは言い難いでしょう。
コントラバスの方がきっかけとはいえ、その方の即興力ではなく(後に二人でセッションされる事は角野氏からのアイデアで事前から決まっていたと思われる)、角野氏がジャズで培った音楽家としての空気感がコントラバスの即興を「呼び込んだ」といえるでしょう。
しかしながら、それが起きるかどうか、さらにはお二人の関係からオーケストラ全体ににまで広がるかどうかは「運」的な要素がないとも言えません。
ある意味「持っている人!」という気もしますが、それを可能にする「音楽の場」を推進するキャラクター=カリスマ性があるのでしょう。
ただし、ユニークなのはそのカリスマ性がヒエラルキーの頂点に在るのではなく、ヒエラルキーを無意識化する方向に働くという事です。
小曽根氏にも共通するのですが、リーダーシップが無いというのとも違いますし、うーん…やはりセッションという「場」から生まれる特有の関係性を会得しているという事なのかもしれません。
今後に行われるかもしれない弾き振りでは、私が角野氏のクラシック演奏に感じる類の「奏者全員によるセッション(即興)」の様な質感が可能性が考えられます。
クラシックで表現としてこれを確立できたらちょっと凄い事だと思うのですが…まあ、将来的な可能性がということだけなのでこれ以上は書けません。
いずれにしても、それらは角野氏の過去からの軌跡上にある訳で、すでにお持ちのものが昇華・展開された(される)のだと考えています。

一方、私が「チャイコン1番」で驚いたのは、「角野隼斗としての個性」を一旦封印してまでも、新たなクラシックの表現(しかも、必ずしも伝統的な解釈を目指している訳ではないと思われるところが末恐ろしい)を模索している様に伺えたからです。
このコンサートをアンコールまで聴き終えると、もしかしたら佐渡裕マエストロとのお二人で何かを企み、目指されている???
私がこのプログラムを拝聴できるのは今回限りなので、それを確認する術はありませんが、一つだけ言えるのは、角野氏のクラシック音楽に対する「挑戦」「野心」をかつてはいほど感じたということです。
私がなぜこの演奏にそれを感じたのか、角野氏の「挑戦」について多面的に考えてみたいと思います。

すみだクラシックへの扉 #22について

<コンサート前>

クラシック音楽に馴染みの無い私は、コンサート前には予習として対象曲の音源を聴きます。
最近感じているのは、19世紀前半に作曲された曲は解釈の違いで大きく印象が異なるということです。
前回のnoteで書いた大阪フィルハーモニー交響楽団との「ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番」の場合、全編通してモダニスティックな解釈が主流だった所に、ロマン主義的な解釈を用いている第2楽章の音源だけが圧倒的に聴かれている状況にある様です。
質感が相反する第2楽章との表現性を見事に調和させたのが、サラマンカホールでの演奏だと感じた訳です。
そもそも、私がこの時代の作品には解釈の違いが顕著だと気づいたのは昨年のハンブルク交響楽団「バルトーク:ピアノ協奏曲第3番」での演奏で、こちらは抽象度の高い第1楽章と第3楽章を、第2楽章での角野氏の際立った情緒的表現によりコラージュ的に配していました。

チャイコフスキーの場合はもう少し時代が早いのでそこまでではないのですが、「チャイコン1番」の音源を複数試聴していると、現代音楽への兆しを感じる演奏と、ベートーベンのような王道クラシック的な演奏とに印象が大別されます。
また、第2楽章ではあえてリズムがバラバラに感じられるような演奏と、全体を調和させようとする演奏とに別れ、私は当然バラバラなタイプが好きでした(そもそもショパンコンクールでの角野氏の「ショパン:ピアノソナタ第2番」に感じた魅力は無理に繋げようとしない所だった 笑)。

そういう自分の好みが反映されている演奏として、下記スルタノフ氏のものが一番好きで、予習ではこればかりを聴いていました。

実際に聴いたコンサートでの演奏ははいつもの様にその予想や期待(自分好みという意味での)は大きく覆されましたが。。。笑

<すみだトリフォニーホールの音響>

実際の感想の前に「すみだトリフォニーホール」の音響について書いておきます。
過去に小曽根真氏作曲のピアノ協奏曲「SUMIDA」を聴いたことがあったのですが、1階が余りにもひどい音響で感情的なTweetをしてしまったことがあります。

第13回すみだクラシックへの扉」の #小曽根真 氏による新作ピアノ協奏曲「SUMIDA」を楽しみに伺ったのですが、ピアノの音が酷く(ピアノ下からの籠る音と上からの音とのズレ)鑑賞になりませんでした。オケと一緒は音が聴こえず、トリオ箇所でも早く弾かれるとメロディすら不明。→
#新日本フィル
→この音響を「ホールとして普通・音の好みの問題」と思われる関係者がいらっしゃるなら、世間を知らなすぎるか「生音は素晴らしい」で思考停止されています。コロナ禍で配信や録音技術が高まった今、生音の質が悪ければ会場に観客は戻らないでしょう。クラシック音楽ファンを増やす以前の問題です→
→舞台が高く傾斜が少ないホール1階はピアノの音に問題が生じますが、この場所でピアノ協奏曲の新作を初演する企画自体に疑問を覚える程酷かった。ホールの問題で客席に美しいピアノの音を届けられないなら、せめてきちんと録音をして欲しかったです。でなければ小曽根氏に失礼ではないでしょうか。→
→動画を観た時本当にワクワクしたのに‥この動画の方がずっと綺麗なピアノの音でした😢構造上ピアノの底が見える位置に客席があれば音は悪くて当然です。補助スピーカー音を生音と自然に混ぜる音響も今や特別ではありません。音のクオリティUPに本気で取り組んで下さい。(下記リンクにリハ音源有)
🙏 twitter.com/newjapanphil/s…

Twitterサークルでの投稿

今改めて見ると大変お恥ずかしいものですが、「小曽根氏に失礼」と書いた理由は、リハーサル音源がわざわざ2階から撮影されていたからです。
本番を2・3階から撮影したものは良くありますが、リハーサルで2階から撮った音源は初めて、わざわざ2階のステージ近くまで行って撮影した状況を考えると「1階ではピアノの音が悪い」事をスタッフは知っている→「オケ関係者で共有されている事実」と感じられたのです(今公演リハーサルのポストも1階からですし、しばらくTLをチェックしましたが2階からの撮影は俯瞰を目的とした特殊な場合しかない)。
それを承知の上で新曲を依頼しここで初演するのはちょっと酷い事だと思ってしまった訳です。
傾斜がないフラットな床と高めのステージの場合、ピアノの底からモワモワした音が中心のうえ、距離がある天井からの残響がズレとして戻ってくるので、1階はどの場所でもまともにピアノの旋律が聴こえません。(オペラシティもフラットな為前方はモワモワしているのですが、全体が余り響かないので1階後方はまだ聴きやすい)
ちなみに、「SUMIDA」ジャズパートのメンバーは現Trinfinityのお二方!
この時からトリオの着想がお有りだったのか、このメンバーならクラシックからジャズまで全て演奏できると思われてTrinfinityを結成されたのかはわかりません。。。

話を戻します。
今回は一度ソールドアウトになった後に運良く戻りのチケットを入手したので席はほとんど選べなかったのですが、当然2階を選びました。
プレトークでの佐渡マエストロの解説では、「ベートーベン:運命」がその後の交響曲に大きく影響を与えた事、特に同じ「5番」と付いているものには顕著に感じられるという内容で興味深かったのですが、こだまのようにズレるディレイが酷くて言葉は余り聞き取れませんでした。(言葉が聞き取れなかったという方のポストはいいくつか見かけました)
ホール上部にある備え付スピーカーからの放送は問題ないのですが、プレトークは1階のどこかにある小さめのスピーカーから出ているのでしょう。
「かてぃんラボ」ではソロツアーでのこだわりが語れていたので、このホールの音響が角野氏の表現に影響を与えた可能性も考える必要があると思われます。

<チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番>

●第1楽章

冒頭の所、ホーンの旋律と弦が鳴った後からのピアノのジャン・ジャン・ジャン・ジャンとなる所…過去聴いた中でもオケ全体のバランスが素晴らしくてビックリ?!
ピアノはまるで目の前で演奏されているかのように距離を感じないビビッドな音色で、低音部の響きも豊かで逆に距離で増幅されている印象すらありました。
このホールの1階と2階の音響クオリティの落差が余りに大きく、唖然とするしかありません。。。
テーマ部のピアノの音も弦のピチカートも、特にコントラバスのピチカート(つまりジャズで言うウッドベースの音)までもが、2階正面奥の「身体」にダイレクトに響きます。

全体のテンポ感はしっかりタメが効いている王道クラシック。
前述したロンドン響+スルタノフ氏のテンポ感のようなすっきりした進行ではなく、もっとずっと重みを感じますが、かと言って仰々しいイヤらしさまで行かないのでホッとしました。
佐渡マエストロと新日本フィルという組み合わせだと「ザ・クラシック」になるかもしれず、実は直前まで不安な気持ちもあったのです。
(そもそも戻りチケットを入手した事自体、最初から聴きたいという気が起きずにスルーしていた為)
ただ、角野氏の持ち味とも言えるシャープな疾走感は封印されていましたし、所々ウネリを感じるグルーヴはあるもののあくまでも「クラシック」の適正範囲。
逆に言えば、この純クラシックプログラムで「あえて角野隼斗を起用した必然性」は表現からは何も感じられません(経済的必然性は大きいでしょうが)。
中盤からのピアノソロ、一つ目の主題ウクライナ民謡のダンス的な躍動感は、本来角野氏の聴かせどころになるはずなのですが驚くほどニュートラルに全体性の中で演奏されていました(つまらないという事ではないですが身体的には高揚しない)。
二つ目の主題もソロの聴かせどころとして前に出てくる感じはなく、木管楽器から受け渡された質感の中でピアノが奏でられ、オケとの相互の会話の様に続いていくのです。
クラシック然とした品格のある緩急ですが、そこを殊更強調することもなく続いていく感じ。
もし角野氏の評判を聞いて初めて聴く方がいらっしゃったら、「評判と違って平凡」と感じるかもしれません。
ですが、これまでの角野氏の演奏を聴いている側からすると、私(し)を滅して基本に忠実であろうとする姿勢が強く感じられ、驚きと初々しさすら感じるのです。
ただ、完全に無為かというとそうではなく…学生が漠然と抱く将来への野心を含みのようなものが感じられました。
私が角野氏のオーケストラとのコンサートを聴くようになったのは2022年春からなので、とにかくこんな角野氏は見た事がない!という驚きが一番でした。
当時はご自身の個性(爪痕)を残そうとされている感じがあったので。

また、角野氏だったらもっと揺らすだろうと思っていた所もインテンポのまま強弱だけの表現に留まっています。
(クラシック的な揺らし方とジャズ的な揺らし方とは明らかに異なり、今回は身体感覚に直接感じるジャズ的な揺らしはほとんどなく、曲の様式として緩急をつけるクラシックの緩急がメイン)
カデンツァはすごい迫力でしたが、その後、いつもだったらどうしてもオケよりも早くなってしまうような箇所での息が本当にピッタリ!!!
大阪フィル+べセスマエストロのような、角野氏の疾走感・ドライブ感を前提に指揮とオケが合わせたのではなく、角野氏がオーケストラの大きな波に自らが乗って立ち上がっているかの様な印象。
そう、サーフィンで波に乗る瞬間のふわ〜っという感覚がしたのです。音楽的な質感ではなく、オーケストラとの一体感が形作られていく際に、互いの異なるリズムがフッと浮き上がる様に一致していく感覚です。
ここまで堅牢に一体感が構築されていると、最後にテンポを緩める部分から最後の一音までがピッタリとズレることなく一致しますね。
このようなオケとの安定感は今まで感じた事がないものでした。

●第2楽章

冒頭のフルートが本当に素敵!そこから同じ旋律で入るピアノや弦楽器。
その受け渡す感じもやはり曲としての全体性が感じられ、弦楽器とピアノが対で入るところもやり取りが心地良かったです。
が、所々???と思う所も。
というのも、音が鮮明である分硬さを感じる平坦な印象、本来角野氏だったらもっとやわらかく表現されるはずなのでは?と思われます。
もしかしたら、あえて朴訥と弾いているかの様な印象さえしました。
また、シャンソンとよばれている所が「現代音楽への兆しを通じる」と書いてた部分で(FFさんが車田和寿氏のYouTubeチャンネル音楽に寄せて「【名曲解説】チャイコフスキー!ピアノ協奏曲第1番〜」を紹介して下さり、説明の背景に音楽がながれる為「シャンソン」という部分であることが判明)、変拍子的な印象で現代的に演奏される方と、通常のテンポ感の中に納める方との二種類に大別されます。
楽譜がどうなっているのかわかりませんが、角野氏だったら自由に変拍子風に演奏されるのかとばかり思っていたのですが、全体の調和を保つタイプで演奏されていました。

つまり、角野氏のこれまでの演奏で想定されるアプローチとはことごとく逆なのです。。。
弱音はクラシックとして繊細に表現される一方で、リズムは音楽の質感に合わせてクラシックの枠を超えた現代的表現だと思っていたものが全てがありません。
弱音はアップライトの「AQUA」のような均一的な、ある種朴訥とした硬めの音色。
当初は調律や音響の問題かとも思ったのですが、テーマの1巡目が硬い音色で2巡目は少し柔らかめに聴こえてくるので、演奏として意識的にされているのだろう…と。
ただ、表現としての意図があるにしてはちょっと理解に及ばないとうか。。。
全て朴訥とした音色で通す場合、均一的シニフィアンを前提として受容するため無機質に奏でられた音の中に鑑賞側が内面性を感じ取る事も可能なのですが、柔らかめの音との相互の場合はその内面性に辿り着けないもどかしさを感じてしまうのです。
(例:ゴシックの細い書体を明朝書体と並べた時、細いゴシックからはラジャイルな質感を感じることが難しくなりますが、全体がゴシックのバリエーションであれば、その繊細さは認識されやすい)
また、クラシックらしいテンポの揺らぎからは身体的な心地よさは感じられません。
正直、サラマンカで聴いた2つの協奏曲の緩徐楽章と比べたら感動は小さいと言わざるを得ないのですが、サントリーでのソロコンサートのような不満足な印象は受けず…「何か新しい事をしようとしている?!」という期待が感じられました。
もしかしたら1階でも聴き取りやすい様に通常よりも硬めな音ではっきりした演奏を志されていた可能性も考えられます。
この表現を必要とした音響的必然性か、表現的な解釈意図がありながらも完成度が至っていないのか、その両方なのかはわかりませんが、今後のツアーでは大きく進化していくのでしょう。

<追記3>
シャンソンの部分、変拍子的に聴こえる演奏と通常のテンポ感の中に納める演奏の謎が解けました。
FFさんが「ポリリズム」と教えてくださったのですが、「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番[福間洸太朗の動画で楽しむ楽曲解説・聴きどころ紹介 #6 ]」で「ヘミオラ」と表示されていました。
ヘミオラはポリリズムの一種で2拍子と3拍子の組み合わせなので、カウントの際にどこを強く演奏するかによってリズムの印象が大きく異なったのでしょう。
とてもスッキリしました!

●第3楽章

車田氏の解説では冒頭が力強いウクライナ民謡の舞曲との事、私が聴いていた音源でもほとんどが力強い始まりだったのですが、角野氏の演奏はとても軽やかでした。
とはいえ、軽やかな勢いはありつつクラシック感のインテンポ。
民謡の舞曲と考えれば軽やであってしかるべきでしょうし、協奏曲として引用したという意味であれば質感まで受け継ぐ必要もなく、まさに解釈の分かれどころなのかもしれません。
最後のコーダと言われる部分(今回、私が言いたい演奏箇所を示す単語がYouTubeの解説で明確になった事は本当にありがたい!)、壮大な所までのピアノの繋ぎ、素早いく独自のうねりからゆっくりとおさめてオケに受け渡されていて、、、、もう今までとは全く違う見事な表現だと感じられます。

これまでの角野氏の演奏からは、仰々しくなるような演奏をあえて避けている様に感じていたのですが、今回はオケに合わせてしっかり壮大な音楽を作り上げていました。
ただし、そもそものオケのノリがギリギリ大袈裟にならない所でもあり…そこがさすがに佐渡マエストロだと思いました。
とにかく、本当に過去に一度も感じられた事がないほどのバッチリ合ったオーケストラとの一体感には驚きと感動を覚えました!!
(これまでの角野氏だったら早まってズレてしまう所が、完璧な一体感)
終了後角野氏が「ドヤ顔」だったと投稿されていたファンの方もいらっしゃったのですが、それも当然だと思います。笑

<アンコール バッハ(角野隼斗編曲):羊は安らかに草を食み>

冒頭、良く言えば無機質に悪く言えば棒の様にただ叩いているかのような左手の伴奏音が続き、この時点では何を演奏されるのか全く不明。
すると右手からはとても柔らかく「羊は安らかに草を食み」の旋律が奏でられてきて…えええ???と・・・
演奏の素晴らしさもさることながら、やはり第2楽章は柔らかく弾けるのに故意に固く演奏されていたのだ!という確信が強く感じられました。
前述したハンブルク交響楽団の「バルトーク:3番」の時、アンコールのドヴォルザーク:スラブ舞曲」、民族的な情緒たっぷりの表現だったので「できるのにあえて情緒性は抑えていた」と感じられたのですが、それに近いアンコールの印象です。
この冒頭部、何かに似ていると思いながら思い出せなかったのですが、なんとXのオススメが流れてきてスッキリ!
最近頭の中を覗かれているのでは?と思うようなド・ストライクの投稿が時々オススメに出る時があるのですが、今回まさにそれ!
ティグラン・ハマシアン氏の「Fides Tua」の左手の伴奏と右手の入りに近かったのです。
アルバム「An Ancient Observer」を改めて聴いてみると「Markos and Markos」「Nairian Odyssey」もちょっとそういう感じがありますね。
ただ、左手は「ソロツアー千穐楽公演の感想」「バッハ:イタリア協奏曲 第2楽章」での「左手で時折鳴らされる同じ2音がモダンな印象」と書いた音質に近く均一で、それをバックに柔らかい右手の「羊は〜」でした。
(どちらもバッハですがそこに関連性があるのかどうかは不明)

これまた、先に無機質な印象が与えられた後の情緒的表現となるため、鑑賞にはちょっとした驚きも発生します。
例えるなら、表拍だと思っていた所に旋律が入ってきたら裏拍だったとか、2拍子や4拍子だと思っていたら旋律では3拍子になっていたとか、そういう「驚き=ヤラレタ」感に近いものです。
私にはこの左手が何の曲かは分かりませんでしたが、後のポストで「チャイコン1番 第2楽章の伴奏」と投稿された方がいらっしゃり、「マッシュアップ」と表現されていいました。
完全なマッシュアップというよりも、一つの曲のつもりで聴いていたら質感の異なる二つ目の曲が加わる「驚き」の部分が、マッシュアップという言葉にピッタリな感じです。
この柔らかい「羊は〜」は、風格ある「チャイコン:1番」の後にとても沁み入りました。
いつもに比べれると第2楽章が硬く情緒性に乏しいと感じられたので、尚更そう感じたのかもしれません。

このアコールを聴くと第2楽章で新しい試みがなされている様にしか思えないのですが、翌日の岐阜公演のアンコールでは1回目と同じく「アイ・ガット・リズム」だったとの事、この日だけが特別だったのか今後は交互に演奏されるのかはわかりません。
というか、そもそも何故「アイ・ガット〜」なのか。。。
通常のアンコールは演奏曲や何かに因む場合が多いので選曲理由が不思議なのですが、もし、ご自身がクラシック然としたオーケストラのタイム感を得た!という意味でであれば、なかなかにシニカルですよね。。。笑
いずれにしても、コンサートツアーでその演奏はどんどん変化・進化していかれる事でしょうから、皆様の今後のご感想を楽しみにしたいと思います。

<追記1>
4/29放送「J-WAVE GOLDEN WEEK SPECIAL TOKYO TATEMONO presents FEELIN' GREEN」コメントゲストで紹介されたアビシャイ・コーエントリオ「THE EVER EVOLVING ETUDE」を紹介された時「テンポで騙される感覚、こういうリズムかな…と思ったら後から違うの入ってきた拍が本当で、イリュージョンな感覚が味わえる感」と語られていました。
アンコールではそこまで複雑なリズム展開ではなかったものの、全く同じような「驚かせる意図」を感じたのです。
しかも、棒みたいに聴こえるピアノのタッチはまさにコレ!!!
録音はこのコンサートと割と近い時期に行われたのではないでしょうか。
アンコールとはいえ。その時々に感じたインスピレーションを本番で試せる所こそが、後述している「角野氏の特別な環境」によるものだと考えられるのです。
更に追加。 角野氏がポリリズムのゲームをされていたというポストが流れてきたのですが…やっぱり!と。笑


<チャイコフスキー:交響曲第5番>

実は試聴していた時、クラシックの王道なのに「結構好きかも?」と思うところがありました。
また、佐渡氏のプレトークとパンフレットの解説がとても分かりやすく、理解の手助けとなりました。
特にプレトークにあった「ベートーベン:交響曲第5番 運命」との対比のお話、曲全体が「襲いかかる苦悩→葛藤→歓喜」という構成になっているとうのが興味深かったです。
この「苦悩」部分が、私が苦手としていた「クラシック的な大袈裟な表現」なので、「自分の苦手な質感=苦しみ」という解釈にすれば「おおおお!なるほど!好きでなくて良いのだ!!!」と思たのです。笑

⚫️第1楽章

木管を中心とした鬱屈した葬送行進曲の様なテーマ、足を動かしているのに一向に進めない虚無感。
オーケストラ全体での迫力ある演奏になると、襲ってくる苦悩というよりも目の前に立ちはだかる巨大な壁に感じられます。
テンポは私が苦手としているモッタリしたものですが、だからこそどうにもない「存在」が表現されているとも思われ、音楽の必然性が感じられました。
そこから少し軽やかに音楽が変化するのですが、視点が自己から離れて周囲の景色を眺めている様。
そしてまた逆風で前に進めないながらも歩み始め、また景色を見て…という事が何度か繰り返され、楽章の最後では「これが続いていく…」という様な感覚で終わりました。

⚫️第2楽章

ホルンや木管楽器の静かに流れる主題の中に感じる「凛」とした佇まいからは、内省的な姿勢が見え、情緒的なメロディでありながらもその品の良さから感情に流されすぎない美しさが感じられます。
特にもう…クラリネットが本当に素晴らしかった〜〜!!!
曲調が壮大で明るくなったり暗く静かになったり、テンポも揺れて…主人公を取り巻く環境の変化が表現されている様。
本当に物語みたいですね。

⚫️第3楽章

ここにワルツが入る様式がちょっと私にはわからず、せっかく物語みたいな感じだったのに!?という感じがありつつも、やはりこの軽やかなパートが無かったら聴いているのも辛いだろうな…とも。笑
途中3拍子から4拍子・変拍子に変化していると思われるのですが、とてもナチュラルに移行していて、それが現代音楽への兆しに感じられます。
Wikipediaでは、この交響曲5番が書かれるまでの音楽的試行錯誤の期間が長かったと書かれていたのですが、たしかにこれは…となんとなく納得してしまう感じです。
私が感じるチャイコフスキーの魅力は、哀愁的・民族的メロディとこの拍の現代的な面白みだと思いました。

⚫️第4楽章

第1楽章に出てきたテーマが長調で奏でられているのですが、ある種の「仕切り直し感」があり、端正で整った印象を受けました。
元気になると見た目もシュッとする!みたいな感じです。
もちろん小さめの音ではあるのですが、もう準備万端整っているのです。
そして、ホーンのファンファーレの様なものが入っていよいよ歩み始める!という感じ。
そこから曲調が変わった後の疾走感。
テーマが戻って来て大々的にガーっと演奏されると、「ちょっとちょっと、、、この推進力なに?!」みたいな驚きが!!!!
いや、これはもう…「スターウォーズ」か「スーパーマンのテーマ」です!!!
聴けば聴くほど、ジョン・ウィリアムズって、チャイコフスキーを参考にしていたのでは?!と思う程。
事前の予習で複数の音源を聴いていましたが、こんな事は感じませんでした。
とにかくズンズン前に進む力強いドライブ感が心を鷲掴みにし、高揚していくのが自分でもわかります。
メッチャカッコいいし、とにかくクライマックスに観客を引っ張っていくのです。
FFさんも「第4楽章の国藩「〜急きたてられる所」がお好きとポストされていらっしゃいましたが。本当に凄かった。
終わりに向けてテンポは緩やかになる部分もドライブ感はキープされ、ラストは第1楽章からの一切が解放されるカタルシスに!!!!

帰宅して音源を聴いてみると、曲自体の終わり方もジョン・ウィリアムズに似ているのです。
実際にコンサートで聴くまではそんな事は思いもしませんでしたが、今はもう「似ている」感が頭から抜けません。笑
この日の演奏、純クラシックファンの方かすると大衆的とマイナスに捉える方がいらっしゃるかもしれません。
でも、私的には「ジョン・アダムス:悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか」で「機関車」と書いたようなミニマルミュージックから来ている推進力に感じられるのです。
つまり、クラシック音楽の系譜であるミニマルの「圧が積み重なっていくドライブ感」です。
逆に言えば、ジョン・ウィリアムズのマーチ系のテーマ曲は、クラシックのその手法を映画音楽に利用したのではないか、と思える程なのです。
とにかくワクワク感・躍動感・高揚感が半端ないでのですが、その魔法の様な謎の一つが解明された気がしてちょっと嬉しい!
まさかまさか、ジョン・ウィリアムズの謎にチャイコフスキーの交響曲5番で気づくなんて…笑

後付けではありますが、チャイコフスキーは舞踊的な民族音楽の引用やバレエ音楽も数多く作っていますし、ミニマルミュージックはアフリカ民族音楽の影響も受けているのですから、そこからの流れで(繋がりを感じても不思議ではないはずです。
この5番をスターウォーズやスーパーーマンのテーマに似ていると言うと不謹慎に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、様式や歴史性を抜きにフラットな状態で聴いてみれば、それほど突飛なものではないと個人的には思っています(注:様式や歴史性の軽視している訳ではありません)
予習で試聴していた時「結構好きかも?」と感じていた所が、この日の演奏で「割と好き!」に変わりました。笑
ただし、この現代的なタイム感を角野氏抜きの交響曲で感じ、角野氏の演奏からはこれまで氏の演奏に感じられなかったほど「王道クラシック感」を覚えたことが、コンサート全体としてさらに興味深く感じられました。

<アンコール チャイコフスキー:弦楽セレナーデ 第2楽章 ワルツ>

前日のアンコール時にこの曲名をポスト下さっていた方のお陰で事前に予習できたのですが…これも全く違っていてビックリ〜!!
冒頭のヴァイオリンから軽快なリズムでワルツが奏でられ、キラキラした音をからもビブラートか何か?不思議な残響のような音色が感じられます。
何よりも、本来ならワルツとしてリズムの緩急が生じる部分が割と無視されていて、曲のテイストが全く異なっているのです。
そう、小気味良いスウィング感すら感じるとても現代的というか大衆的。
サラマンカのnoteに書いたべセスマエストロ指揮の録音「ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲第2番 2楽章ワルツ」に書いたような印象。
私は新日本フィルや佐渡マエストロはクラシックの王道路線だと勝手に思っていたので、最後まで良い意味で驚きっぱなしでした。
 

<感想のまとめ>

上演芸術の場合、表現者の個性・技術と表現作品に対する解釈の結果とし「表現」が成立します(解釈を拒否するかの様な表現もそれ自体が解釈)。
表現者の個性に寄せるために無理に恣意的解釈を行えば違和感が発生しますし、個性や技術が伴わないのに概念としての解釈にこだわれば説得力はありません。
個性と解釈は完全に一致する必要はありませんが、完全に離れてしまったら表現として聴衆には伝わりません。
一方、少しズレた方がそのズレによって世界観が広がる場合もありますし、私が好きな「構造的」にイメージが膨らむ場合もあります。
また、資質としての個性とは異なる表現を目指すことで、更なる技術や表現性の向上にもつながといえるでしょう。

今回のこのコンサートでは、本来的に感じていた「表現者の個性」と「解釈」とに良い意味で「ズレ」を感じました。
佐渡マエストロと新日本フィルという組み合わせ、本来ならもっとザ・クラシックという王道路線で演奏されるかとばかり思っていたのですが、まさかまさかの予想を超えた展開!!!
一方で、角野氏はクラシック表現に忠実であろうと演奏されている印象。
3連日の演奏後には「頂上の見えない高い山」「見たことのない景色」とはあるものの「まだまだ登り続けたい」とも投稿されています。
この時点で頂上と解釈されるファンの方々もいらっしゃった様ですが、私は自分が当日の休憩中に思わず書いた様に、ツアーでの成長を視野に入れ「ここは頂上ではない」という宣言にも感じられました。

オルソップマエストラとポーランド放送響とのツアーでは、皆様が角野隼斗というソリストが新たな扉を開くその瞬間を支えて下さっていた様に感じたのですが、今回は共に作り上げようとする姿勢を感じます。
角野氏の側からみれば今までに感じた事がないほどそのオーケストラの一員として共に山を登る意志、「挑戦」としか表現することしかできない姿勢が感じられる一方で、氏が演者として参加していない「5番」にも氏の影響が見え隠れするほど。
佐渡マエストロと新日本フィルの皆様と角野氏が何を目指されているのかわかりませんが、強いて言えば、クラシック音楽という様式美の中でも成立し得るプリミティブな身体性を掘り起こそうとされている印象を受けました。
それは歴史的解釈ではなく、音楽として対峙する中で再発見される今の芸術的表現としてのものです。
いうならば、まだ誰も観ていない「新たなチャイコフスキー像」です。
ここで書いているのは概念の話なので、果たしていそれが実現可能なのか、多くの鑑賞者を納得・説得させるだけの完成度に至るかどうかはわかりませんが、チャイコフスキーの曲からはそれを可能にするポテンシャルといいますか、現代に向かう芽吹きが感じられるのです。
あくまでも私の私観でしかなく、音楽的・歴史的論拠は全く何もありませんが、まあ‥中間領域好きの嗅覚ってことで。笑

⚫️おまけ1
ヘッダーの写真「水のソナタ」作者の船越桂氏(3/29にご逝去)のエピソードを。

当日開演前には「題名のない音楽会」のフラワースタンドの影に隠れてしまい横から撮れなかったのですが(前日12日と開演前に撮られたと思われるフラスタ中心の写真のポストが多い)、終演後のフラスタ移動後に撮影したのがヘッダーの写真です。


角野隼斗氏の「野心的挑戦」とその環境

これから書く事はあくまでも仮説なのですが、角野氏の「挑戦」を取り巻く環境がやはり通常とは異なる背景を持っていると感じられるので、後々のために書き残しておこうと思います。
まずは今回の「チャイコン1番」でのこと。
角野氏の挑戦、もしかしたら小曽根真氏がクラシックを演奏し始めたことと近いのかもしれない…という印象を持ちました。
小曽根氏の場合はジャンルが異なる分野を主軸に演奏活動をされていたので正確には異なりますが、それまでの成果や功績・成功体験は関係なく、その音楽性を受け容れる姿勢が感じられます。
言ってみれば、この時点でクラシック音楽に対する「守・破・離」の「守」的な姿勢を感じたということです。
外的影響に対し積極的に身を晒し自身の変化を望んでいる様に感じられ、それが冒頭の「学生の様」という言葉になったのですが、個性や表現性が評価されてくるほどに、本来はとても難しいことです。
造形芸術のように表現が固定して残る訳でもなければ、壊しては創るというサイクルでもないため、それらは尚更難しく感じられます。
もしかしたら、弾き振りの経験から新たな視点で音楽を意識されるようになったのかもしれません。
ただ、その一方で同時にソリストとしての独自解釈への野心の様なものは消えていない感じも受けました。

角野氏の「挑戦」へのモチベーションはご自身が持つ好奇心であることは疑いないでしょう。
「カナダ初公演スペシャルインタビュー」では「怖さを楽しさに変え」とありましたが、単に精神的に捉え方を変えるだけで解決できるほど簡単とは思えませんし、本人の意思だけではどうにもならない事もあるはずなのです。
それを可能にしていると思われる条件をいくつか考えてみます。

まず、ファン層には保守的なクラシックファンが少なく、そういう方々はそもそも角野氏の表現に対して否定的だという事。
現支持者の反応の中では新たなチャレンジで評価が低下するおそれが無いので、「挑戦」を行うにはデメリットどころか大きなメリットだと言えます。
嫌味でも何でも無く、新しい事にチャレンジするという意味だけに限って言えば実は好条件。
もし保守的な層が支持者だった場合、思い切った挑戦(具体的には後述)は難しくなる可能性は十分考えられるのですから、この環境は大いに利用していただきたいものです。

二つ目は、「千穐楽追記版」のnoteに書いた様に、角野氏の存在をそのまま受け容れて応援するファンがいるということ。
角野隼斗という「人」を支持する以上、その人物から発せられる事であれば全てOKですし、成功や失敗に関わりなく「難しい挑戦」そのものに対して重い価値を置くのです。
また、SNSやYouTubeで発せられる応援コメントは、表現者が「怖さを楽しさに変える」という捉え直しのきっかけや動機となり得ますし、「怖さ」に立ち向かう支えになり得るでしょう(必ずそうなるという意味ではなく、なる可能性があるという意味です)。
ご本人が実際にどう思われているかはわかりませんが、「受け入れられている」という実感・承認が満たされた状態だからこそ、思い切った挑戦に至れることは確かです。

また、それらのファンの皆様はコンサートチケットやコマーシャル商品の購買力とSNSでの拡散力を持っている為、経済的に苦しいクラシック業界においての角野氏は「太い顧客を持つ特別な存在」となります。
ぶっちゃけ、試みとして行った演奏がイマイチだったとしても、ファンの存在があれば角野氏が次の仕事を失うこともないということです。
ただし、その低い評価は難しい挑戦の結果として、一時的であるという前提があってのことです。

これらが意味する事は何か。
全てを受け容れるファンのせいで角野氏の成長が損なわれるのではなく、全てを受け容れるのファンのお陰でリスクある難しい試みにも挑める環境があるという事です。
角野氏がもし思わしくない演奏をされたとしても、次は絶対に良くなるとファンは信じているでしょうし、その期待を裏切らないのが「角野隼斗」というアーティストという事になるのです。
チャレンジには当然ながらリスクはがある訳ですが、ファンには「リスクを吸収する受容/プレッシャーを軽減させる応援」があり、表現者の「期待にを裏切らない進歩/より楽しい(意義深い)鑑賞体験の提供」というレスポンスとで、相互の信頼関係が成立している訳です。

今回のチャイコフスキーのプログラム、前述の氏のポストからは今後のツアーで自らが成長していくという意思が読み取れます。
この発言、私たちファンの中では何の疑問もありませんが、本来は各地で同レベルの演奏を提供するのがプロだという考え方もある訳です。
というか、支払う金額に見合う見返りを求める以上は「これから成長します」という姿勢は認められないという考え方の方が本来かもしれません。
もちろん全てを同じ演奏で行うことは無理だとしても、可能な限りそれを志すのが普通で、最初から成長を前提にするアーティストはほとんどいないでしょう。
ツアー中の成長への見通しを屈託なく公に宣言し、それをファンが喜ぶ状況はとても珍しいと思えるのです。
(ジャズの場合はセッション・一回性としての違いを前提にしているので、成長を前提とした公演毎の違いとは異なる)

興味深いのは、ファンにとって技術的・表現的に未熟かもしれないコンサートを観る事は特に不満なことではないのです。
初期の瑞々しさや終盤での成長を実感するという意味で、十分に魅力的なコンテンツになっています。
必ずしも「人として全てが好き」でなくても、私の様に表現性が「兆し」として感じられればそれはそれで面白みが感じられます。
ドキュメンタリーというジャンルがある以上は「成長過程・変化過程」をコンテンツとしてみせる意味は十分あるのですが、アカデミックなクラシックの世界ではこの鑑賞スタンスは存在しないでしょう。
つまり、クラシック音楽会にいては「成長する変化がコンテンツになり得る=未熟さがあっても本番のコンサートで成長する事が許される」という稀有な状況にあると言えます。

小曽根氏も「本番でしか得られない学びがある」とおっしゃっていましたが、本番で表現や技術上のチャレンジを続ける事ができる人とそうでない人との差は、時間が経るほどに大きくなっていくはずです。
「思い切った挑戦」と前述したのは、本番のステージ上で表現や技術上の試みを行うこと、それを続けていけることです。
それはとても素晴らしいものではないでしょうか。
「千穐楽追記版」では、ファンが副次的効果を考える事はやめた方が良いと書いていましたが、もし可能な副次効果を一つだけあげるならば、「挑戦し続けることを可能にする環境(モチベーション維持/経済的基盤)の提供」という事になるのかもしれません。

また、ツアーの合間に別のコンサートや仕事が入る事も、本来であれば集中を削ぐリスクになり得るのですが、角野氏の場合にはそこから新たなインスピレーションを得られる良い機会となっている様です。
正直、ソロツアーの合間にサラマンカでのコンサートが無かったらどうなっていたのだろうと思ったりもする程なのです。
氏の表現性に「バランスの良さ」「環境の影響を受けやすい=他からインスピレーションを受ける」という特性がある以上、マルチタスク系のスタンスは良い方向に働いている様に感じます。
常人がやろうとすると「二兎を追うもの一途を得ず」にしかなりませんので、特別な人だけに許されることだとは思います。
もちろん、同時に多彩な仕事をこなすのもやはり「挑戦」です。
そうそう、短編アニメ「ファースト・ライン」の劇伴もされとか。
本当にマルチタスクで凄い!
そして、なぜか「ファースト・ライン」の動画ポストも「一度でチャンスをものにする云々」という内容で、なんだか偶然を感じてしまいますね。。。

歴史的に考えても、芸術家を育てるパトロンは表現に対する厳しい批評家ではなく、ある意味ではアーティスト全体を丸ごと受け容れるファンでした(途中で喧嘩別れしてしまうパトロンの存在も見られるのは、対男女の別なくそこにエロス的要素が含まれるともいえる)。
どの様なクリエイティビティでも受け容れられるという精神的安心感と物質面が支えられる経済的安定があるからこそ、アーティストは果敢な挑戦が可能になり大きく羽ばたけるのではないでしょうか。
ただ、ファン側は「応援≒援助≒自らの功績(承認欲求)」という心理状態に陥る場合があるので、注意しないといけない所ではありますね。
歴史的に、パトロンと芸術家のトラブル要因もソコにある訳なので。。。

現在ではパトロネージュが芸術家を育てる状況にはありませんが(造形芸術の青田買いはパトロンとは非なる投資的意味しかない)、角野氏を取り巻く環境は総体としてのファンが芸術家の物心両面を支えるパトロン的役割を担っている状況に近いと思われます。
考えてみると、クラウドファンディングによるスタートアップ支援も「人として」の判断で行われるなど、事業の論理的整合性よりナラティブな判断が主軸となり得る社会なのですから(ポストトゥルース時代)、「芸術家を人として応援する行為≒アイドル的支援≒総体としてのパトロネージュ」は当然の現象と言えるのではないでしょうか。
ただし、人としての魅力を評価される事に辛さを感じる芸術家もいらっしゃるはずで、そういう方々の芽が出づらくなってしまった現状は社会的な問題として考える必要はあるでしょう。
が、別の話なのでここでは割愛。

これはあくまで仮説ですし、私自身は「人との関係性」への興味が薄く共感性に欠けるので、残念ながら前述の「信頼の輪」には入りきれていません。
皆様の応援に乗っかっているだけなのですが、だからこそ「これが何なのか」を言語化しておきたいという気持ちが働いたと言えます。
現在、自分の生理に反するような応援はしていませんが、それが許される角野氏のファンコミュニティの緩さはありがたい事だと思っています。

大衆文化が歴史として定着する20年後、果たして角野氏を取り巻くこの状況がどの様に扱われるのか楽しみなので、現時点での具体的エピソードも交えて残しておいた次第です。

●おまけ2 Classic FM Live at The Royal Albert Hall with Zeb Soanes
ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー

そしてついに、大きな挑戦でもあり成果でもあるイギリスのロイヤルアルバートホールでのデビュー!

※5/25に上記YouTubeを追加で埋め込み

このマエストロ、たぶんジャズはほとんど聴かれない方だと思います。
クラシック的な大きな緩急と音色を大げさに変化させる恣意的な表現で「ジャズ」を表現しているらしく…正直聴いているのがとても辛かった。。。
テンポは曲が持つリズム感に関わりなく早くなったり遅くなったり、しかも拍取りのタイミングはジャストのみで、身体感覚に沿わないテンポチェンジ。
全体の時間が短くなっているので多くのファンの方が「早い」と書かれていますが、早いのではなくてジャズ的な間合い・タメがないのです。
私の好みからは最も外れる演奏なので、通常なら最後まで聴けません。。。
ですが、角野氏はこの大げさなクラシック然とした妙なジャズ感(?)にリズムも質感もとても良く合わせているのですよ〜!!!笑
コレが出来るのが本当にすごい。。。
まさに「チャイコン1番」の最大の成果だと思いました。
望まれているだろう、やや大げさなジャズ味のある演奏をクラシックのタイム感でしっかりこなし、その中で個性と魅力を発揮した演奏からは、これまでとは異なるプロとしての安定感がありました。
そう、こういう絶対に失敗してはいけない所では最大限相手の要望に応えている様で、やはり試みが許される場との違いは意識されていると感じました。

中盤の鍵盤ハーモニカからは、完全に指揮者・観客をも手中に収めた感じで、音楽の中を自由に泳いでいる表現者自身の高揚と喜びを感じます。
鍵盤ハーモニカの準備や片付けに必要とされた「間」は、緩急が大きな音楽の中では十分に説得力がある余白表現になっていて、音だけ聴いているだけでもその「無音」が効果として感じられます。
また、この直後に起きた拍手は、聴衆の皆様が曲と演奏におけるクロスオーバーとしての意味を理解され、自らもそれを示されたのだとも感じました(ジャズの場合は優れたインプロ直後の拍手する事がお決まりなので)。

電話のコール音を取り入れた所、特に2回目はリカバリーではなく顕示的表現でもなく、その音を音楽として自然に演奏に取り入れていて本当に素晴らしかった!!!
リプ下さった方とのスレッドで書いていますが、環境音が音楽だと気づいたジョン・ケージ「4分33秒」の、その先を自然と歩まれている様に感じます。
そうは言っても、この部分が「指揮者から拾ってもらえる」きっかけになっているのですから、やはり「持ってる!」としか言いようがないのですよね。
ご自身がいくら自然にそれを行っていたとしても。。。

そしてラスト、今までだったら合わせるのが難しかった所(弾き振りの「題名のない〜」ですら合わなかったタイミングが)が本当にピッタリ合っていてまさにブラボー!!!

私自身はこういう表現は苦手ですが、クラシック界ではそもそもこちらが主流のはず。
これまでは角野氏の個性が自分の趣味と一致していたという部分が大きかったのですが、今後は自分が好きな表現と角野氏の表現が一致しない場合も増えるだろう事を感じます。
それでも将来への期待が失われることが無いのは、「本質的個性は変わらない」「一時的な変化だ」と無理に自分を納得させている訳ではなく、私が角野氏に期待する芸術の将来像には音楽を超えたものを感じているからです。
具体的な形はもちろん見えていませんが。。。

ファンの皆様のポストを拝見していると、好みや価値観・鑑賞視点がそれぞれ異なっていても、ご本人に負けず劣らず「大きな野心」をお持ちです。笑
私は相互的信頼関係の輪には入れていないと思いますが、野心を抱く同志の輪には入れている気がしています。
まあ、野心と書くとステイタスを目的にしたかの様になってしまいますが、大谷選手の野球に対する底抜けの野心と同類のものです。
つまり「大志」って事ですね。

<追記2>
新日本フィルのアカウントから、リハーサル時の佐渡マエストロのお誕生日動画が投稿されました。
ファンの皆様は、壮大なチャイコフスキー風と書かれていらっしゃる方が多かったのですが、私的には目一杯の大音量でアタックも強く演奏されないとピアノの音が綺麗に聴こえない(録音されない)という状況を感じてしまいました(チャイコフスキーに寄せている事を否定する意味ではない)。
演奏後の拍手や弦の音もディレイを感じますし、やはりトリフォニーホールの1階はフワーッと空間に音が広がる様な響きではないのですよね。。。
あと、立った状態で撮影されてるのでピアノの上からの音が拾われていますが、座っているとピアノの底板からの音の方が強くなるので、もっとモヤると思います。
本来、こういうおめでたい投稿にネガティブな事は書くのはどうかと思いますが、本文でホールの音響について結構割いているので追記させて頂きました。
(※追記3は「ピアノ協奏曲第1番」第2楽章末尾)


<追記4>「大和証券グループpresents 佐渡裕指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団 with 角野隼斗」ツアーを終えて

ツアー公演が終了した時点での追記です。
5/31の栃木公演からの3本は、「チャイコン1番」第1楽章のカデンツァでアドリブ=即興演奏を行なったとの事です。
経緯はかてぃんラボ(有料メンバーシップコンテンツ)「チャイコン1番について語る - Talking about Tchaikovsky Piano Concerto No.1」で語られ、楽譜に「アドリブ」と記載があった為とのこと。過去に(角野氏がご存知の限りは)「チャイコン1番」でアドリブをした人はいないそうです。
詳しい方によると、どうやらクラシックとしてのアドリブとは一般で用いる即興という意味ではなく、書かれている楽譜のテンポは自由に弾いて良いという意味だそう。なるほど、先例がないのも納得です。
とはいえ、テンポ(だけ)が自由とはどういう意味なのか分からないでいたところ、FFさんからどう演奏されているのかわかる動画を教えて頂きました。
チャイコフスキー:ロマンスop.51-5」でリンクは曲頭からですが、15:37頃からの楽譜で中段右端のad lib.表示以降の2小節が該当、演奏は15:48位からです。
四分音符の和音が並んでいるだけの楽譜ですが、演奏はトリルの様にも聴こえるので、分散和音的にその和音をキープしたなかでの自由さという感じでしょうか。

「楽譜に書かれているから慣例とは異なる演奏」という意味では、「大阪フィルハーモニー交響楽団 第47回岐阜定期演奏会〜」<追記4>に書いたべセスマエストロによって楽譜通りの高速テンポで演奏されたという「ベートーヴェン:交響曲第8番」の考え方に近い様にも感じていました。
ですが、その後に小曽根真氏の「読売日本交響楽団 粗品と絶品クラシック」(Tver)で「ラヴェル:ピアノ協奏曲」で即興を試みられた際のお話を伺うと、それほど単純ではなさそうです。
楽譜通りに何回も演奏してきた結果として即興がある訳で、やはり「守・破・離」の段階を踏まれていらっしゃる。
では、「守=楽譜通りの演奏」で「破=即興演奏」になるのなら「離」は何かといえば、楽譜通り演奏するとか即興で演奏するなどの解釈という概念からも自由になるという意味なのでしょう。
角野氏はまだお若いのでその段階に行かれるとは思いませんが、晩年のグレン・グールドのバッハからは、なんとなく「離」の印象を受けます。

ただし、単純に「何度も演奏したから」というソリスト個人の問題だけではこのアドリブは成立せず、ツアーを共にされた中で、オーケストラメンバーの一人として佐渡マエストロや新日本フィルの皆様との信頼関係が築かれたからこそ可能とも言えます。
また、先に書いた様にファンや客層がそれを受け入れ易い状況にあるとはいえ、即興でありながらも従来のクラシックファンにも受け入れ易い表現として逸脱し過ぎないバランスだったのだろうと想像します。
実は、栃木公演終焉直後のインスタストーリーズには珍しく「たのし〜〜」と書かれていたので、少し驚いたほどでした。笑
前例のないチャレンジが皆様に受け入れられた興奮と喜びが感じられ、そこから一気に突然のラボ配信に繋がったと考えられます。
この「アドリブの解釈」をどう考える(解釈)すべきか、直接的には関係ないものの、参考になりそうな事例があるので小文字で少し書かせていただきます。

昨年末の紅白でAdo氏が東本願寺の能楽堂で歌唱を行なった際、照明モニターで能舞台の鏡板(後ろに見える松の絵)を全面的に隠し、フリーイラストの様な松の絵を投影していた事への拒否反応はとても強いものでした。
能のことを何も知らない方でも、なんとなく能舞台から神聖さを感じるかと思われますが、その神聖さは神が宿る依代としての松=鏡板に由来します。
歌舞伎の「謡がかり(歌舞伎の長歌で能の要素を用いた様式)」では、鏡板の松が描かれることで能舞台を表している訳で、Ado氏のように鏡板を隠すのであれば能舞台ではなく、単に古風な屋根を見せているだけになってしまいます。
だからと言って能舞台は能しか使ってはいけないのか…というと、現代ではそれもまた疑問に感じられる所に、素晴らしい事例をみつけました。

この投稿に玄人の方もいいねを下さっているのですが、地方の狂言方が引用RPされ、「白足袋(白ソックス)着用が徹底されているのか気になる」と書かれていました。
うーん、、、気にする所はそこでは無いのです。。。
そもそも、なぜ見付柱は外しても問題ないのかと言えば、能面からの視野の狭さをカバーする為に「目付」として利便性の為に存在するものだからです。
一方、白足袋(代替としての白靴下)の着用は、能舞台に対する敬意を形にした作法です。
敬意を表することが目的で白足袋着用は手段でしかないのですが、引用RPされた方にとっては、白足袋着用が伝統として順守されるべきものになっています。
この舞台では、本来は無いはずの階段を脇正面(左)側に設えて出入している様で、舞台に上がる際には靴を脱ぐとのことです。
写真を拡大すると階段付近だけ敷物が伸ばして敷かれている細やかな配慮も感じられます。
また、デスクが置かれている右側の位置は地謡が座る部分で、いわゆるオーケストラボックスの様な場所です。
細部にまで気遣いがある仕様で、舞台に対する敬意は白足袋着用でなくても十部に果たせていると感じられます。
伝統に対して新たに現代的な解釈を行うということはまさにこういう事!と感心してしまいました。
能舞台を用いる以上は鏡板を隠すことはあってはならない事ですが、作法として白足袋を強制しては新たな展開が見込めません。
目付柱を取り外して動線に配慮し舞台に敷物を置くことで、用途は広がりつつも能舞台への敬意は損なわれないという見事な最適解だと感じました。

伝統作品に対して新たな展開や現在的表現として演奏される角野氏の解釈やスタイルは、まさに上記にのような類で、先例をなぞらなくとも「原点回帰」であり「(発生時の)即興性」が生かされていると言えるでしょう。
伝統にリスペクトした新しさが成立するという事です。
また、このアドリブに対し「同じ曲の演奏に飽きてきたから?」という様な投稿もあったのですが、佐渡マエストロも「毎回違う演奏をする」と評されていた様ですし、やはりそういう次元の問題ではないかと。。。
上記の能楽堂は、国際的なディスカッションの場としてとして「日本の文化を海外の方に紹介する」という目的が先にあり、その手段として現代的利用可能な能楽堂が設計されています。
角野氏の表現は「クラシック音楽を現代にどう表現するか」が起点にあり、楽譜に書かれているアドリブの解釈を即興演奏としたのは、「クラシック音楽の解釈域を広げる」手段の一つと考えられます。
同じ曲の演奏に飽きたから‥とか、誰もやっていないから‥という様な近視眼的なものではなく、もっと広い俯瞰的視野がうかがえます。
ただし、表現の方向性やファンの育成的部分も含め、通常では大きなリスクですら最小限にとどめる環境を自らが作って来られた結果、とも言えると思います。

ということで、、、
この「チャイコン1番」で、王道クラシックとしての「新たなチャイコフスキー像」の確立という角野氏の野心は果たして達成できたのか?!
私はその演奏を聴けていなませんが、ファンの皆様のご感想からは「今まで聴いた事がない」「新生 角野隼斗」「自信に溢れている」という言葉が見られ、コンサートマスターの崔氏は「交響作品の〜スケールの大きな世界」と書かれていらっしゃいました。
佐渡マエストロはプレトークで「自分の体の一部かのように〜心が動くままに〜弾ける」とおっしゃられていたそうです。
保守的な王道クラシックファンの方をも納得させる得る説得力を獲得し、これまでにない新たな瑞々しい表現を手にしたと言い切りたいと思います!

また、最終日には崔 文洙氏、佐山裕樹氏とのピアノトリオで自作の「かすみ草」をアンコール演奏されたとの事。
作曲家・音楽家としての自信の顕れともいえますし、ツアーを共にしたオーケストラの一員として行ったソリストアンコールとも言えるでしょう。
終演後、角野氏も「高く聳える山のような曲だったのに〜とても身近」とおっしゃられていますし、山の頂に立たれた実感をお持ちの様です。
けれど、角野氏の野心は底抜けです。すぐにでもまた新たな山を目指されるのでしょう。



●余談1
このリンク先のポストとツリーで自分がどうして皆様のような応援が苦手なのかわかってしましました。。。
応援というのは、自分が望む他者の理想的未来に対し推進力を発揮するので、それを自分の行為として行うことができないのです。
自分が他者からの理想を押し付けられる事の暴力性を敏感に感じるタイプだからです。
また、お名前を捩ったり関連商品を購入したり多くの方が楽しまれているだろう「推しとの同一化への欲求(親しい関係性になりたい欲求)」に対する抵抗がも強いのです。
芸術の聖域に対する侵蝕への拒否反応が強いことは度々書いていますが、人物に対してもほぼ同じという事です。
他者の期待や想いを受け止めそれを力に成長できる方は、他者を応援する事ができ、また同一化の欲求(≒エロス)を発露する事も可能です。
他者からの応援を大きな力にできるアイドルや芸能人などは、その転換力が大きいという意味で、さらに特殊な方々です。

ちなみに、大河ドラマはテーマへの興味は大きかったのですが、成人してからは余りにも生々しすぎて脱落しました。
私が感じる古典表現の美からは直接感じられなかったものが、現代のメロドラマになってしまった時点でダメでした。
私が芸術にハマるのは、表現として昇華されることで作者の人間性や鑑賞者の感情とに距離が発生し、生々しさが消えるからでしょう。
ただし、これは存在する表現が作者や鑑賞者から独立して存在するという意味ではありません。
関わりや影響はあるが「距離」「ズレ」があるということで、その「距離」「ズレ」という関係性=中間領域こそ、自分が最も惹かれる何かが潜んでいるという意味です。

椎名林檎氏「放生会」には生々しい戦や美化された平和は語られていませんが、加害者・被害者という関係性から解放された全ての人々への寿ぎが示されているのだと思います。
『「隼人の乱」祟り』に気分を害する方がいらっしゃるかもしれませんが、「祟り」というのはその力がマイナスに働いているというだけで、そのマイナス(悪)の力をプラス(善)に転じるという行為が供養や祀りでプラスに転じる行為がの一つが「放生会」です。
古代ではその方向性が相対的であるというメタ認知行われていたという事です。
「隼人」が今でも人名として今も使われているということは、天神様と同様にそれがプラスの力に転じた結果です。
SNSで違和感があると度々書かれる「不良から更生する人の方が平凡な人より誉めそやされる」という価値観にも通じるのでしょう。(それが良いか悪いかは別)

●余談2
5/31のラボ配信、連日のツアー途中に一時帰宅されたことや月末ギリギリに行われた事に対し、一時帰宅による負担を心配される方や月一更新の不要さなど、体調を心配されている方々の投稿が散見されました。
しかし、私はこのラボ配信は本当に特別な「神回」だと思うのです。
チャイコフスキーにおけるアドリブ=即興が初めて行われたかもしれないその直後、コンサートそのままの高揚感を湛え演奏とともに配信記録として残った事がどれだけ特別で凄いことか。
これまで誰も行なっていなかった即興としてのアドリブがマエストロやオーケストラ、聴衆に受け入れられた直後の興奮と喜びがその配信の端端に感じられる臨場感のある記録です。
もしかしたら今後、同曲で即興を行う新たな選択肢として発展する可能性も考えられ、後年にも影響するかもしれない特別なものです。
後になって思い出し語りで配信されたとしても、このリアリティは記録されません。
まあ、健康上の心配を理想の押し付けと感じてしまう自分に問題があるのは十分承知していますが、なぜこの神配信に…と思ってしまいました。。。


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略

■追記も含めたnoteの更新記録はこちらからご確認ください