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"本能寺の変"同日同時刻に亀山城から本能寺を足軽装束で行軍してみた(6) ~食糧調達と、篠村八幡宮での決起~

本編は【その5 出陣の宴】からのつづきです

亀山の城下町を出て山陰道を京に向けて進む。現在は国道9号線が通っているが、その少し北側に旧山陰道と思われる幅一車線の細い道が有る。
旧い家も割と残っているのだが、現存している建物は古くても幕末のものだろう。さすがに400年以上前の建物は残っていない。

城を出て2・3km歩いただけでお腹がすいてきた。当時の足軽たちはさすがにこの時点ではまだ食事はしていないだろう。

この進軍は表向きは中国地方での毛利軍との戦いの増強目的という事になっている。兵たちも長期間丹波を留守にするつもりで出陣していたはずだ。長距離行軍なので全行程の必要物資を持参するのは物理的に無理だ。食料などの物資は途中の味方の城などで補給することになっていただろう。

当時の一般的な感覚では、食事は朝と夕方の一日2食。日が暮れると寝る生活だった。一晩行軍すると翌日昼間は動けなくなってしまうので、長距離行軍の場合は進軍は昼間だけだ。夜間行軍は余程急いでいる時の、目的地直前だけのはずで、つまり明智軍の足軽たちは亀山城下を出た時点で、通常の進軍ではない"何か"を感じ取っていたのではないだろうか。

明智光秀は桂川に着いた時点で有名なセリフ「敵は本能寺に有り!」を言ったとされる(←史実とは異なるというのが定説)。実際は末端の足軽もそれまでに異変を感じていたのではないかと、実際に歩いてみて思った。目的地(備中国)まで1週間以上の行軍のはずなのに、出発していきなり一晩寝ないでの行軍は普通ではありえない。まさか"織田信長を討つ"とまでは気付かないにしても。

さて、食料の調達だ。さすがに道中の家々に分け入って食料を奪ったり、分け与えてもらうわけにはいかない(笑)。国道沿いに有ったアルプラザ平和堂亀山店に入った。

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食料の調達に勤しむ足軽たち。

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見かけが弱そうだからか、周囲の買い物客には全く反応を示されず、空気のような存在の足軽たち。

買い物を済ませて店を出ると、外は薄暗くなってきた。国道沿いの歩道を暫く歩くが全く風情が無く、田んぼの中の脇道へ入り、広い敷地の有る旧家が点在する山陰道の旧道を行く。半時間ほどで最初の目的地、篠村八幡宮に到着した。

篠村八幡宮は100m四方くらいの敷地の、深い森に囲まれた趣の有る古社だ。木々が茂る森は鬱蒼としていて、実際の広さよりも広く感じた。既に暗闇だったからかもしれない。灯りが全く無く、写真もうまく撮れない。

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明智軍はこの神社で全軍約13000人の兵士が揃うのを待った。道幅的にせいぜい3列縦隊しか出来ない。前列との間隔が50cmとしても13000人だと、その行列は2km以上になる(こんな密集状態では動けないので、実際はもっと長いはずだ)。この神社もそんな大人数は入れない。このあたりの道は将兵で埋め尽くされていたはずだ。

この篠村八幡宮で光秀は戦勝祈願をして、重臣たちにだけ本能寺を襲う事を明かしたとされている。篠村八幡宮は、室町幕府初代将軍になる足利尊氏が鎌倉幕府討幕のため挙兵した場所ともされている。信長を討ち自ら新しい世を創ろうと光秀が考えていたのならば、ここは縁起が良い場所だ。

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この故事に倣って(?)、丹山酒造で買った酒と平和堂で買った総菜で、自分たちも出陣の宴を開いた。
ここで参加者がもう一人増える事を知った。史実にもぴったりだ。

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閉店間際で半額になった寿司を食べ、酒を飲む。
「もうここで終わりにして帰っても良いんじゃね?」という発言も出てきたが、「まぁこれべつに余裕なんじゃ?ただ歩けばよいだけやん」と言う意見が優勢で、参加者同士で自己紹介などをしながら酒を酌み交わしたのだった(自分とは全員知り合いだが、参加者同士はほぼ初対面だった)。

【その7 「暗闇の老ノ坂」へつづく】
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