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日記 エッセイ


日記


先日は山にストレス発散に行った。山奥で誰にも聞かれない所で自分の感情を吐き出した。スッキリした。

しかし、その時にお腹の調子が悪くなる感覚に襲われた。やばいっと一瞬で思った。家からこんな遠い場所でお腹痛くなったらどうしたら良いんだ?トイレがない所でこんなことになってしまった焦り。

どうしよう?どうしよう?頭の中が不安で混乱しどうしよう?という言葉でいっぱいになってしまった。

山奥なので、山の中でしようと思ったが、それはダメだと思い、徒歩で40分くらいの道を早歩きで急いで帰っていった。

何度も家と今の現在地をイメージしながら、苦しみに耐えながら歩いていった。最悪知らな家の人にトイレを貸してください。と頼もうと思うと気が楽になった。

しかし、そんな精神的な落ち着きはお腹の痛みですぐにかき消される。真夏の太陽は僕の苦しみに拍車をかけた。
異常な暑さなのに、お腹の痛みに現れるあの独特な寒気で体が狂ってしまいそうだった

帰る道中何度も漏れかけた。死にかけた。そして、家が見えた時のあの心の安心感とやっと着いたという嬉しさとお腹に拍車が掛かって一気に漏れそうになった。

そして、大急ぎで鍵を開けてトイレに直行。
心臓はドキドキして、足は、なわなわと震えていた。
危機一髪だったと思う。

落ち着いてトイレから出ると、まず、鍵を閉めていなかった。山に持って行った水筒は近くのゴミ箱みたいな所に投げられていて、靴を履いていることに気づいた。玄関のマットがぐちゃぐちゃに散らかってもいた。
相当焦っていて、もう無我夢中なのだと思った。

もうあんな体験はしたくない。もうあの苦しみは経験はしたくない。拷問のようだった。

それからしばらくは家の椅子に座り呆然としていた。側から見たら、ギャンブルで大損したんだろうなと思われるだろう。

水原一平さんが大谷さんに全てを知られてしまった時の表情に似ているだろう。

鳴り続ける時計の音や近所の生活音などは何分かは全く僕の耳には届かなかった。ただただ、世界は下痢の経験だけだった。

それからしばらくは動けなかったが体調も治ってきて、徐々に下痢の世界が晴れてきて日常に戻ってきた。

もうあの経験は一生したくない。

エッセイ

僕はお金を使わずに生きることにしたという本を読んだ。僕がイメージしていたというか想像していた本とは少し違っていた。

もっと狂気的な人で世捨て人だと思っていた。

しかし、中身は違っていて、なかなかの合理主義だし、その実験中はかなりの社交的な生活をしていて、人とかなり繋がっていた。

多分今の日本人のほとんどの人よりも人との触れ合いが多い生活をしていたのではないかなと思った。

少し期待はずれだった。

しかし、自然由来の製品を使ったり農業のボランティアの人と関わったり自然の中で生きるという生活にはとても自分の生き方を見直すきっかけになった。

印象的だったのは、ヒッチハイクをしていた時に出会った人の中で多くの人が車を手放したいという気持ちを持っていたり、車の中に忘れた水筒を著者に届けようと探し回ったという人のこと。そして、その人はパブかどこかで暴行をして捕まっていたこと。著者はその人のことを知り、世の中には善と悪もないということを悟ったということ。

著者はその実験中多くの人と支え合って、助け合って生きていて、かなり充実していて、昔の人間、昔というのは20万年以上前の生活に似ているのではと思った。

そういったコミュニティが有れば僕も参加して、みんなで助け合って生きれたら楽しいだろうなとおもった。









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