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「色々あったけど地域おこし協力隊で花開く♪ 高島俊思」

「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」
 稲盛和夫/京セラ名誉会長

広島出張の際、地域で活躍する人を中村あっちゃんからたくさん紹介された。俊ちゃんこと高島 俊思(しゅんじ)さんも、その一人だ。

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俊ちゃんは、愛知県出身の48歳。8年前に地域おこし協力隊で広島県呉市とびしま海道下蒲刈島に移住し、現在5歳、4歳、2歳のお子さんと家族5人で島暮らしを堪能しながら幸せに暮らしている。

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観光+スポーツの企画・運営をする株式会社 Alii Tobishima 代表取締役であり、コテージ梶ヶ浜でコワーキングスペースの管理・運営を任されるサラリーマンとしての顔を持つ。島でしかできない、彼にしかできない仕事を生み出し続けている。「リスナーに勇気と元気を!」そんな俊ちゃんとの対談、1回10分、全6回の放送、フォローして聴いてほしい。

幼少時代、2つ年上の姉と2人姉弟(きょうだい)。引っ込み思案だった彼は、「勉強もスポーツも万能で生徒会長の姉のようにならないといけない」と思い込んでいた。両親も当たり前に児童会の役員をさせて姉と同じように彼を育てたが、「やらされてる感」でいっぱいだった。だが、一度役員になると、なり手のいない児童役員は中学・高校まで続いた。生徒会長として演台に立つと真っ白になることもあったという。

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俺も講師として今でこそ人前で話すことに抵抗はなくなったが、小学校の時は大人しくあがり症で、それを克服しようと高1で生徒会副会長、高3で生徒総会議長、専門学校で生徒会長を歴任し、人前に立つことに慣れたつもりになっていたが、会社を経営することになってから隊員(旅の参加者)の結婚式で主賓挨拶中に真っ白になったことがあった。それ以来、上手く話そうとするのではなく、自分らしく話そうと決めた。すると、スピーチで失敗することはなくなった。

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野球少年だった俊ちゃんは、中学・高校とテニス部で活動、ずっとスポーツが好きだった。大学進学後、東京で暮らすことに憧れを抱いて上京。東京でサラリーマンになるも、5年ぐらい経って、何もかも嫌になって途中で逃げ出した。家族にも黙って1か月ぐらい失踪生活をしていたのだ。今から思えば、幼少期から、背伸びして、つま先で歩いてて自分らしく生きる術を知らなかったからだという。初回から衝撃的な始まりだったが、俊ちゃんが自分の闇の部分を語れるのは「今、自分らしく生きてるから」、そう思えた。

それでも当時は辛すぎて20代後半の記憶がないという。愛知県の実家に戻ってから整理がつかないまま仕事をした結果、親と姉以外誰にも会わない引きこもり生活が2年続いた。社会と自分を隔離して何もかもが面倒くさい。そんな状況からミニチュアダックスフンドの子犬を飼った。犬の成長と共に散歩に出るようになって、少しずつ外の世界と接点が持て交流が生まれた。

スポーツ好きだった彼はスポーツジムのインストラクターとして社会復帰した。32歳になった彼はお客さんから「パラオで働いてみない?」と誘われ、6年間パラオで暮らすことになる。お客さんを海や山に連れていく現地ガイドとなって年間300日以上は海でシュノーケリングをやるような日々。日本にいると同年代の友達と自分を比べてしまう。誰も自分のことを知らない南国で人間らしく過ごし、自分の居場所を見つけられた。現地では「ダイジョーブ(大丈夫)」という日本語が日常的に使われていたのも功を奏し、パラオの人たちと交流することで気持ちが楽になっていった。

パラオで知り合った今の奥様と結婚したのも人生の転機になった。日本で暮らすことになって、お互いが「実家のある大阪でも愛知県も違う」って判断し、地域おこし協力隊の制度を見つけて広島県呉市下蒲刈島に移住した。任期3年の生活が始まるも、一期生の彼も行政も地域の人も、どう接していいか勝手がわからず手探り状態。俊ちゃんは、ランニングを始めて島民に挨拶を始め、誰よりも地図がアタマに入って島の地理に詳しくなった。

地域おこし協力隊スタートアップの時期、心温まるストーリーがあった。中国新聞のコラムにも掲載された話だ。島のお爺ちゃんが毎日のように「ピンポーン!お酒呑もうよ」と何の前触れもなくやって来る。俊ちゃんたち家族を気遣ってくれた初めての人。「わしゃ〜遠慮はせん。君の親になろうと思うとる」と、シゲちゃん。お互い変な気遣いのない良好な関係性が築かれた。その後、シゲちゃんは地域おこし協力隊の後輩たち「皆のお父さん」となった。「わしゃー、人が好きなんじゃ」というシゲちゃんのような人がいる下蒲刈島。俊ちゃんは島に住んで良かったと思えた。

今まで「何もできないまま3年の任期終了」「よそ者として地域の人に受け入れられなかった」なんて話ばかり聞いていた地域おこし協力隊。「地域の人に受け入れられたのは、なぜか?」それは、一人じゃなかったから。「暴走するタイプの夫、ブレーキ役の妻、夫婦で移住したのが大きかったと思う」と俊ちゃん。確かにお互いを補い合い独創性と繊細さが溶け合った夫婦で移住というのは強みになると思う。そして、移住2年目に1人目が生まれ、3年目にもう1人、子どもが生まれ、自分たちだけでなく、人口減少が続く地域にとっても明るい話題を提供できた。「この人は本気でこの地に骨を埋める覚悟だな」と地域の人にわかってもらえた。

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シゲちゃんに新しい企画を相談すると「まずは、やってみんさい!」。バリエーション豊富なマルシェ(市場)も、2店舗から小さく始めた。今では20店舗以上、2000人が来場するイベントに育ったが、「最初から20店舗のイベントにしていたら、地域の人に引かれてたと思う」と俊ちゃん。「まずは成果よりも成長を!」そんなふうに感じた。

4、50年前は橋のなかった7つの島。20年くらい前に最後の橋ができて、すべての島がつながったが、「土足で踏み込んではならない」暗黙のルールの中で島同士の交流はなかった。そこで「自分の出番!」と島の枠を超えて架け橋の役割になっていく俊ちゃん。彼にしかできないことを展開していく。

地域おこし協力隊の任期が終了して5年経った。今も下蒲刈島で生活し、様々なイベントを開催して島を盛り上げている。俊ちゃんは生活のために働くというより盛活のために働いているように見えた。7つの橋で繋いだサイクリングロード「とびしま海道」を100km、競争しないでピクニックのように走るマラソン「とびしまウルトラマラニック」。「マラニック」とはマラソンとピクニックという言葉を掛け合わせた造語だ。現地集合解散16,000円で初回300人、2年目500人集めた。「何かあったら家族が住めなくなる」というプレッシャーの中、実現させるのは並大抵のことじゃない。エネルギーや水分補給のために、コース上に設置されたエイドステーションで地元の特産品などを加え、地域にお金が残せる仕組みをつくった。その企画の原点が「高島くん、そんなに走っても一銭にもならんよ」という地域の方の声。その時はわからなくても、後から思えば全てが繋がってるってことがある。今年3回目の「とびしまウルトラマラニック」を計画中だ。

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俺は20年前に隊員たちと行った旅、「キャンピングカーでアメリカ・フロリダ一周」を思い出した。青い空、青い海の絶景、2002年の大晦日、俺たちはアメリカ最南端キーウエストにいた。「隊長、私は元旦にセブンマイルブリッジを走りたい!」そんな隊員たちの要望に応え、20代から60代の有志隊員たちが走った。7マイル(約11km)を走り終えた隊員たちの表情と声が忘れられない。「隊長、一生忘れません。ありがとう。」対話って、いい。記憶の隅にあった映像がよみがえる。人生は楽しい思い出でできている。

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有名な「しまなみ海道」のように「とびしま海道」でもレンタサイクルをやりたいと動き出した俊ちゃん。熱量が人の気持ちを動かし実現できたエピソードを6回目の最後に語ってもらった・・・。ピンチの時、できない理由を見つけるのはたやすいが、できる理由を見つけることが大切だ。

対談を終えて、俊ちゃんは家族や仲間、地域の人と笑って楽しく幸せに生きていくと確信できた。「成幸の人、最幸の人」俊ちゃん、ありがとう。

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日本経済新聞(会員限定記事)
広島・呉の島々をサイクリング名所に 高島俊思さん 下記をクリック!

「人間、楽をしようとするとろくなことはない、
むしろ苦しみを生み出すことになりかねない。
しかし、どんなことでも一所懸命にやっていると、
今まで苦痛だったことが楽になることがある。
そうなると道を楽しむことができる。
なにごとも楽しむようになれれば、
自ずと道は開かれるのだ」
(横田南嶺/臨済宗円覚寺派管長)


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