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「夢を現実に!10年待って。ヒッポファミリークラブのサリー」

 後悔しない人生とは
 挑戦しつづけた
 人生である
 福島正伸

voicyラジオで今、58歳のサリーの夢を聴いた。28年前、多言語を習得するヒッポファミリークラブでついたニックネームが「サリー」だった。今まで旅の話をしたことがなかったサリーが、最近、ヒッポファミリークラブで話しているらしい。「隊長もヒッポのZOOMシェア会で私と一緒に多国籍ツアーの話をしてくれませんか?」そんな依頼があった。

そこでサリーが外国人と旅する多国籍ツアーでバリ島一周、アメリカ西部グランドサークル、南米ペルーインカトレッキング、アラスカ周遊と多くのツアーに参加していることを知った。改めて「そんなに行ってたんだ!」と思い、voicyラジオにゲストとして出演依頼をした。そこで俺の知らないサリーの現在、過去、未来を聞けた。

収録を終えて、シングルマザーのサリーの人生にとって大切なものが見えてきた。まず自分らしく歩んできた私。今、高校3年生の娘さん、2つ年上のドイツ人の彼氏、ヒッポファミリークラブ、そして旅。サリーと話すまで俺は「ヒッポファミリークラブ」を知らなかった。サリーに聞くと、「ヒッポの理論=2言語だけだと喧嘩して、片方が消える。 多言語だと、共存できる。言葉は増えれば増えるほど、習得が楽になる。 言葉は人からもらうもの。 自然習得は、自動習得ではない」など。俺はヒッポを知って、この分断の時代にあって、「融合」、「共存」という寛容な世界が見えた気がして、小さな希望を持てた。そんなヒッポと歩んだストーリーを聞いた。連続放送1,039回目から1回10分、全11回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい。

サリーは広島県出身、今も広島県在住で晴耕雨読の生活をしている薬剤師だ。旅が好きで添乗員をしてたこともあった。

お盆とお正月だけ街に行くのが楽しみな田舎の小学生だった。また、学校の図書館にある本を読み漁り、街に出ると本屋さんで立ち読みする読書好きな少女だった。

中学に入ると、「学校の先生になりたい!」と思った。社会科の先生に憧れたからだ。その先生から青年海外協力隊でエチオピアに行っている人の話を聞いて興味を持ち、「青年海外協力隊隊員になる!」という夢を持った。また、子供新聞を読んで、多国籍ツアー(コンチキツアー)のことを知って海外に目を向けるようになった。英語を習い始めた時、童話作家、佐藤 さとる「コロボックル物語」を翻訳(英語訳)して世界に知らせたいという想いも持った。

高校は大学付属の進学校に通い、都会に憧れた少女は駅前に行く夢を叶えた。大学付属の高校からエスカレーター方式の進学を選択せずに、中学からの夢を見据えて国立大学を受験し、薬学部に合格した。中学の時、父親が独立して事業を始め、母親から「お金がない」と聞いていた彼女は国立大学を目指したのだ。また、国立大学薬学部へ入学することが、医療系の仕事で青年海外協力隊に行くという目標の第一歩だった。「夢がないと勉強しないじゃない。自分が何に向いてるかより、自分は何をやるぞ!でしょ?」って言葉が印象的だった。だから、好きでもない薬学の基礎となる化学、生物、物理も猛勉強した。努力の甲斐あって、薬剤師になる国家試験も50%の合格率を突破して合格した。

そんな彼女の今の悩みは娘さん。高3になって「学校を辞める!」と言い出して不登校になった。ずっと目標を持って生きてきたサリー。だから、やりたいことが見つからない娘さんにイライラした。でも、そんな娘さんが高3になって「やりたい事」を見つけたらしい。親が子に「こういうふうになってほしい」と願うのはわかる。でも、親子であっても別の人間だ。サリーは、どんな時も、後悔のない人生を歩むために「私はこうする!」と自分で選択してきた。ならば娘さんが自分で選択したことを尊重し、信じて見守ってほしいと思った。娘さんの人生だから。何が正しいかより、本人が何を望むかを傾聴し肯定することのほうが大事だと思う。でも、冷静な判断ができないのも家族なんだよね。俺も次女が亡くなった妻と同じ拒食症になって2回も入院し生死を彷徨った時は、娘とどう接していいのかわからなかったことがあるから。

岡山大学では吹奏楽部に所属。中3までピアノ、ギター、そして大学時代はフルートをやったが、どれも上手くならない。今はオカリナ、ウクレレをやっていて音楽活動は彼女にとって今も大事な部分という。野鳥の会にも所属しキャンプをした。奨学金もあったが、1ヵ月5万円に支出を抑えた貧乏生活をする中、恋をした。相手は中国人国費留学生だった。北京大学で2位の成績優秀な医学部の学生だ。初めて話した外国人が彼氏になった。彼は日本語ができるけど、サリーは中国語で話したい。彼から「中国語の前に、まず英語を習得したほうがいい」と言われた。3年から医学部と薬学部でキャンパスが別になって会えなくなった。しかも国費留学生は日本人と付き合ってはならない決まりだった。

大学卒業後、サリーは薬剤師の仕事に就きながら、中学からの10年越しの夢、「青年海外協力隊隊員になる」を実現させた。彼女は24歳になっていた。昭和63年から平成元年までの3ヵ月、東京広尾で語学と体力づくりの訓練に励んだ。南米を希望していたが、赴任先はアフリカ・ザンビアになった。

海外へ行くのはもちろん、飛行機に乗るのも初めてのこと。しかもエコノミークラスではなくビジネスクラス。アンカレッジ経由で空港に途中降機した彼女は、「いつの日かアラスカに再訪する」と自分に誓う。この夢も10年の時を経て叶う。

ザンビアに青年海外協力隊として赴任後、医療活動が始まると、ザンビア大学は医学部はあっても薬学部はない、薬の発注が月に1回、救急車は亡くなった人が乗るものなど様々な問題を知った。さらに、この国の発展にとって一番の問題は、流通だと気づいた。キューバ人ドクターと仕事をしながら、薬の不良在庫をつくらないように連絡を取り合って薬を補い合ったり、仕事は多岐にわたった。そこで同期の隊員が一人亡くなり、夢が叶うも、2年間、たいしたことは何もできなかった無力感で、30年前の青年海外協力隊として働いた事をあまり人に話すことはなくなっていた。それでも今は、「あの時、現地に行って良かった」と思っている。後から意味づけは自分で変えられる。実際、現場を知り、問題を発見することって大事だと思う。

日本に帰国すると実家からお見合い話が持ち込まれ、薬局で6年間の結婚生活をするが離婚を決意した。辛くて精神的に追い込まれていた時、ヒッポファミリークラブと出合った。「7カ国語を話そう!自然習得できる!」というポスターを見た瞬間、「コレだ!」と思えた。先生もいない、日本人同士で話しながら習得していく過程で、ザンビアでキューバ人ドクターと働いていてもスペイン語を話せなかったサリーがヒッポで話せるようになったのだ。聞きだしてくれる人がいる。恥ずかしくない場。アウトプットする機会があることが、語学習得に重要だと気づけた。

離婚後、メキシコに5週間、3家族にホームステイをしてスペイン語を実践しながら学んだ。メキシコから広島の実家に戻らずに東京で暮らした。薬剤師として働きづめだった結婚生活、ザンビア時代のOBが添乗員をやっていて興味を持ち、資格を取ってツアーコンダクターとなった。俺が経営していた「地球探検隊」と出合ったのは、この頃だ。前述したように、サリーは世界中を外国人と旅した。

そこへ米国同時多発テロ、9.11が起きて添乗員の仕事ができなくなり、薬剤師の仕事に専念した。働きながら多言語習得のヒッポを楽しんでいた。そのメンバーと4、5年付き合って「別れようかな」と思ったら、39歳で妊娠が発覚!?。一人で育てる決心をして薬剤師の派遣から正社員となって働いた。その間、ヒッポは入退会を繰り返したが、最近はZOOMでできる可能性に目覚め、再びヒッポファミリークラブにハマっている。

これからの夢を聞くと、30年前に話が遡った。ザンビアから日本に戻る途中、ニュージーランドで2つ年上のドイツ人、ミヒャエルと出逢った。当時彼は新婚だったが、息子が15歳の時に別れていた。6年前、Facebookでサリーを見つけたミヒャエルが日本にやってきた。サリーの娘さんが小6の時だ。そこで彼女はプロポーズされた。そこでサリーは「10年待って!」。すべての過去は未来のためにある。

最後に、2人の今後のプランを聞いた。

「青年海外協力隊隊員になること」、「ラストフロンティアと言われるアラスカに行くこと」どちらも10年かけて夢を叶えたサリー。ミヒャエルのプロポーズに応えるまで10年といえば、あと4年だ。4年後に2人のその後を追っかけ取材したい。

 ホンマの自分のまま
 生きていける場所が
 どっかにあるかもしれん。
 世界はこんなに広いんやから。
 その場所を探したい。
 どうやって?
 わからへん。
 もしかしたら ないかもしれん。
 けど、いろんな場所に行って
 みたいって思う。
 NHK連続テレビ小説『舞いあがれ!』


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