「悩んで決断して、そして”生きたいように生きる” 軍司かりん」
かりんちゃん(軍司かりん)は、舞ちゃん(渡名喜 舞)に続いて、あっちゃん(中村あつよしさん)プロデュースの「暮らしの藝術大学」1期生、2人目の登場。
リスケした収録日が偶然にも20歳の誕生日になったばかりのタイミングだった。2回目まで電波が不安定で聴きづらいかもしれないが、3回目からZOOMのビデオを切って音声だけで収録すると安定した。彼女は敢えて困難な道を選択し、20歳とは思えない経験値を持っていた。連続放送1,030回目から1回10分、全9回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい。
かりんちゃんは、北海道札幌市出身の20歳。小学生の一番の熱い思い出は、小3から小6までスクールバンドに所属したこと。バリトンサックスから始まり、ユーフォニアム、チューバを担当した。コンクールで金賞を取るために朝練から日々没頭し、まさに「スクールバンドライフ」を送ったが、1回目の結果は銀賞だった。小6になると部長になり30人いた個性的な部員をまとめた。毎日のように喧嘩しながらも揉め事を全てカバーしていった。
中学になると吹奏楽部に入るかどうか悩んだ。吹奏楽部はコンクールに出場したことがなかったからだ。そこに「こんな先輩になりたい!」と憧れる先輩と出会ってソフトテニス部に入部した。ところが3年になって先輩はいなくなり、2年生から生徒会活動で書記を担当したこともあって途中で辞めた。「私は運動部に向いてない」とはっきりと理解した。やってみなければ、自分が何に向いているのかわからない。「まず、やってみる!」が大事だ。
「高校生活は、私の人生を変えた!」と言い切った、かりんちゃん。人生を変えたのは札幌新陽高校の校長先生との出会いだった。自分に合う高校を探しに学校説明会に行くと、「本気で挑戦する人の母校」という文字が目に飛び込んできた。「何言ってんだか・・・」素直になれない自分がいた。相談してくれた人が最後の最後に、校長に就任したばかりの42歳の若い校長先生だと知って驚いた。そもそも勉強が嫌いで高校に行きたくなかったという。テストだけで評価されることに納得がいかなかったのだ。そんな彼女が校長先生の話を聞き終わると、「こんな学校があるんだ!」と胸が躍った。「生徒のやりたい!」を応援し、ひとり一人にパソコンやタブレット端末を持たせ、インターネットなどの情報通信技術を活用したICT教育に力を注いでいた。高校生活では様々な人と出会えるチャンスもあり、資料に写っていた生徒たちは、みんな活き活きしていた。説明を聞いているだけでワクワクしてきたのだ。
かりんちゃんは、「生きたいように生きる!」が最終目標の探究コース1期生となった。「探究」活動と体験を重視した「教科横断型授業」を取り入れていた。ところが、入学2日目に学校を辞めたくなった。個性の強い探究コースの24人。リーダー4人が低レベルの言い争いを聞いて「小学生かよ」。モヤモヤしていた中、「こういう関わり方をして、こういうふうに動いてみたら・・・」と声をかけてくれたのが、入学してから、ずっと彼女が変わるきっかけを与えてくれた先生。かりんちゃんは、その先生を敬意を込めて「ターニングポイントマン」と呼んだ。先生は、かりんちゃんを良く見てる。だから、絶妙なタイミングで声をかけ的確なアドバイスができたんだと思う。
今度は彼女がグループワークを回す立場になった。批評家からプレイヤーに変わったのだ。ボランティア活動をしていく中で、「こんなふうになりたいな」と思える先輩とも出会えた。クラスから飛び出して人と出会うことで視野が広がった。部活は4つ掛け持ちした。放送、アグリ、クリエイティブ、生徒会副会長。
1年後期、「もっと変わりたい!」と欲が出てきた。アタマに浮かんだのは「フィジー留学!」。ターニングポイントマンである先生に相談すると、「明日、フィジー留学を斡旋している人が来るけど、会って話を聞いてみるか?」。鳥肌もんのシンクロ。高1の1月から高2の4月までの3カ月間、フィジー留学をした。目的は言語を学ぶためでなく、「学校を好きになった、私を変えてくれた教育って何だろう?」。自分への問いから、「発展途上国って、どんな教育を受けているんだろう?」という問いに繋がった。
フィジー留学を決めると、「未来への一歩」プロジェクトを立ち上げた。文房具をフィジーに持って行くものだった。SNSを使って「ノートと鉛筆を届けよう!」と呼びかけると、共感する同級生や先輩など仲間が加わり、全国から文房具が段ボールで5箱分集まった。趣旨を理解してくれた留学斡旋会社が、航空会社に支払う超過料金を負担してくれた。この経験が、かりんちゃんを大きく変えた。「人を巻き込む力」って一生使えるスキルだ。彼女がターニングポイントマンと呼ぶのはダイドウ先生。「ダイドウ先生が応援してくれたおかげでプロジェクトが成功しました」と言った。入学2日目に「学校辞めたい」と思った彼女は、プロジェクトを立ち上げたことがきっかけで、同級生も先輩も先生も好きになり、学校が好きになった。「先生の役割って何だろう?」って考えた時、一つの答えが見つかったように感じた。生徒をやる気にさせ、成功まで導き、自信をつけさせ、応援する。「人を育てる」って、こういうことだと思った。
フィジーから帰国すると、高2になっていた。高校生活が大きく変わったのは、後輩ができたこと。かりんちゃんは、後輩と一緒に学ぶ選択をした。高2の生徒は任意申込のチームビルディングに参加したのだ。参加者のほとんどが1年生の後輩だった。インド系のファミリーで3食カレーを食べたエピソードなどを1年生たちに語って3ヵ月ほど過ごし、後輩と良い人間関係を構築していった。
高2の夏休みの2週間、書類審査、集団面接、グループディスカッションを通過し、「日本の次世代養成塾」に参加。全国から200人弱の高校生が一堂に集まった。「リーダーとは何か?」を全国の高校生と一緒に学んだ。最後にはマレーシアのマハティール首相の講演が聞けた。かりんちゃんにとって、自分が目指す「リーダー像」が明確になった。自分が前に立って導くリーダーより、陰で支えるリーダーだ。
かりんちゃんは、任意参加プログラムに積極的に参加していく。今度は任意参加の宿泊学習にファシリテーターとして参加した。ファシリテーターをまとめる立場になった。耳鳴りが聞こえて涙が溢れてきて2日目に倒れるまで頑張った。「どれだけ先読みしてやるか」キャンプを通して学んだことは社会人になっても活かせると思う。リーダーにとって「段取り力」って大事だ。学校に戻って階段を上れなくて膝の損傷、腸脛靭帯炎(別名:ランナー膝)に気づいた。キャンプ場で走り回っていたからだ。自分の限界を突破した経験は、必ず社会人になって活かせるはずだ。これが自分の中で一つの基準になるからだ。
「札幌新陽高校をもっと良くしたい!」と生徒会長を支えるため副会長に立候補した。投票の仕方がICT教育ならでは。ところが当選した生徒会長がオーストラリア留学に行って留守になって、彼女が実質生徒会長になった。この状況で予定していた学校祭、生徒総会もできなくなった。一から練り直し、前例のないオンラインで学校祭をやった。卒業式は短縮して行われた。
高2の後期から大学進学で悩んでいた。日本の大学に興味が湧かない。自分で導き出した答えは台湾の大学に行くこと。中国語の勉強も始めたが、予備校のスタイルが合わなくて卒業式の日、台湾の大学に行くのを辞めた。「大学って何のために行くんだっけ?」と、「何のために」を考える癖ができた。コレ、凄く大事なことだと思う。検索すればすぐに答えが見つかる今の時代、すぐに答えを求めがち。安易に答えを探すよりも、自分に問い続けることが大事だ。
今回のアメリカの中間選挙では人工妊娠中絶の是非が争点のひとつになっている。選択できる権利を尊重する民主党、命を尊重する共和党のように価値観の違いから世論が二分している。答えに正解のない分断された中で、自分で納得する答えを導き出し、自分に素直に正直に生きるのは簡単ではないが、それを探求、探究することこそが人生の醍醐味、おもしろさだと思う。
新陽高校の理事長(校長先生のお父さん)が衆議院議員でインターン生として半年過ごした。かりんちゃんの人生を変えた校長先生が衆議院議員に立候補すると、19歳で随行秘書として半年間、選挙を手伝った。
また、北海道で活躍している経営者が講演する「本気の経営者の会」に19歳で参加。「暮らしの藝術大学」講師の1人、林くん(林匡宏さん)と出会った。林さんは高校生の時から、ずっと憧れてた人。
「暮らしの藝術大学」体験入学を経て1期生として入学すると受講生の渡名喜舞ちゃんと出会った。人生は素敵な人との出会いで変わる。彼女たちの今後の夢とは?・・・
舞ちゃんにしても、かりんちゃんにしても、眩しいくらいに輝いていた。彼女たちの20代、30代の活躍が楽しみだ。
かりんちゃんのnoteで知った近況は、ワクちゃん(大久保 和空さん)の所に滞在しながら、学んでいるらしい。
かりんちゃんは11月からnote始動:(暮しの藝術大学Karin Gunji)
「暮らしの藝術大学」YouTubeは下記をクリック!
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