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「横浜No.1中華を目指して!【ブリル飯店】料理長 鈴木啓剛(ひろたか)」

 究極の塩麹
 フワトロハンバーグ
 究極とは永遠に極め追求し続けること。
 それは終着駅の無い旅である。
 「クールカフェ」
 テレビ朝日「じゅん散歩」荒川車庫前より

いつだったからか、旨いものを食べると、「家族で食べたい!」と思うようになった。また、そんな店が見つかった。横浜ルミネ7F「ブリル飯店」モダンチャイニーズ。以前、voicyラジオに出演した隊員てつはるに紹介され、俺の還暦の誕生日、てつはるからご馳走になった店だ。世界中で旨いものを食ってきた俺でも前菜から驚きと発見の連続だった!

その時、紹介されたのが、今回voicyで放送した鈴木啓剛(ひろたか)シェフだ。

第一印象は、「なんてラジオ向きのいい声なんだ!」。それに、モダンチャイニーズの世界を初めて知った。店の名前のブリルはイギリス英語で「輝き、カッコいい!」が由来。今までにない中華料理を目指してるのが、次々と運ばれてくる料理の一品一品から感じられ、輝きを放っていた。横浜ルミネ7Fから見る眺めの良い空間はお洒落で、素適な器から種類豊富な紹興酒に至るまで料理の味を引き立てていた。

鈴木シェフ7

料理長になるまでの長い道のり、そして今、10年後、20年後のビジョンまでvoicyラジオで語ってもらった。そんな彼とのvoicyラジオ対談、1回10分、9回分の放送、フォローして聴いてほしい。

今年40歳になる鈴木シェフは神奈川県平塚生まれ。湘南だけど山育ち。男兄弟の長男なのに、近所が女の子ばかりで小学2年まで自分のことを女の子と思っていたらしい。実際、ピンクのランドセルが欲しかった。そんな彼に父親は「キャッチボールやるぞ!」。この一言で、週末にはユニフォームを着て野球部に入部した。小3から6年生まで3年間野球部に所属した。ところが元来「目立ちたがり屋」なのにレギュラーになれない。そこで彼が取った行動が、「バントの達人になる!」結局、目立たなくて小6で野球部を辞めた。

中学に入ると漫画「スラムダンク」に影響されてバスケ部に入部。ジャンケンで勝ってマイケルジョーダンの背番号23をもらうも、身長が低く、スタメンになれず3年間、一度も試合に出られなかった。結局、小学1年から中学3年までの9年間、目立ちたいのに目立たなかった。

そんな彼が高校でいきなり目立って自己実現を果たす。たまたま友人のバイトの面接に付き添い、面接を受けることになって受かってしまったのだ。それは中華のファミレスのバイトだった。調理場にいるだけで楽しくてしょうがない。時給680円、週6通い月8~9万円を貯めた。「好きこそ物の上手なれ!」高2で花形ポジション、鍋振りを任された。やっと目立てた、この瞬間、彼は将来を決めた。「オレは料理の世界で食っていく」と。父親に、「ヒロタカ、おまえ、家を継ぐ気ないだろ?」。親が離婚したため、これが父親と交わした最後の言葉となった。

鈴木シェフ2

高校の担任の先生から無料で仕事に必要な資格やスキルの習得を目指す職業訓練校を紹介され、母親に10万円渡されて東京を目指した。中華がやりたかったのに最初の配属先が和食だった。60歳の親方はじめ、年長者ばかりの中で彼はひとり18歳。リアル「味いちもんめ」の世界、厳しく躾けられた。1年間、「昭和」な荒っぽい教え方で礼儀作法を学んだ店を卒業する日。まかない飯に初めて贅沢な「海鮮丼」が出た。「お疲れさん!」と言われ、涙で塩っぱかった。

コネのなかった彼は、大森、鎌田、川崎、品川辺りをめぐり、「働きたい店」を探した。「人生で一番旨い!」と驚いた店が蒲田の餃子屋さん。20席の小さな店なのにメニューが無限。その店をほぼ大将一人で切り盛りしている。餃子の店なのに「名物!」が、オムライスとハヤシライス。終いには「今日の夜は、手巻き寿司しかやらねぇ!」なんて言う始末。やってることは無茶苦茶だが、料理の腕は天下一品。料理の世界観が広がり無限の可能性を感じた。「オレを親父と思え!」と、情に厚い大将。彼も本当の親父のように慕い、「師匠!」と呼んだ。ところが、あることが原因で「やってられねぇ!」と、1年半でお店を去ることになる。小さな空間でトップを尊敬できなければ一緒に仕事はできないと思う。

鶴見に住んでいた彼は、食べ歩きをしていたら、150席あるガラス張りのデザイナーズキッチンの中華レストランと出合う。横浜のルミネ最上階にあった店で3,500円のランチを食べて電撃が走った。

「ココで働かせてくれませんか?」
「明日から来い!」

この急展開な理由を3日勤めて知ることになる。そこは「戦場」だった。コックのポジション争い、嫌がらせが横行、包丁が飛ぶ、中華鍋は45cm、火力も鍋もレベルが違う。だから、「昨日いた人が今日はいない」なんてことは日常茶飯事。あまりの必死さに最初の1、2年は記憶がないという。それでも、4年半務めた。その経験が今に生きている。18年ぶりに同じ横浜ルミネに戻って「ブリル飯店」料理長をしているのだから。

収録の途中、「ブリル飯店」で鈴木シェフを囲んで、隊員てつはるも合流した。てつはるの突っ込みで、結婚まで考えた韓国の女性との失恋話。一度行った記憶だけを頼りに韓国まで訪ねて元カノと再会。大失恋の末に酔って留置場ってオチで1回目の収録を終えた。

鈴木シェフ5

「どうしよう!?あと20年くらいある!」ってことで数か月ぶりに「ブリル飯店」でリアル収録したのが7回目から9回目。20年分を3回、30分で語ってくれた。

24歳の時、横浜にいた4年半で自信をつけたつもりだったが、東京の高級中華、広東料理に特化した店で働くと、初日からボロボロになった。全てが広東語・・・また、目立たない存在となった。そんな挫折を経て、副料理長としてヘッドハンティングされる。その店で料理長になった彼は、夢だった日テレの某人気TV番組に出演が決まった。番組のゲストは俳優の藤原竜也。プレッシャーの中、見事やり遂げ、2ヵ月先まで予約が取れない繁盛店にした。鈴木シェフの逆転人生、メッチャ目立った!

鈴木シェフ8

その後、ミシュラン掲載レストラン広東料理の店で美容や健康を意識して肉や魚の替わりに大豆を使う野菜に特化した料理を、次の店ではモダンチャイニーズを学んだ。都内2件の店を経て、料理長として声がかかった。そこがなんと、今の横浜ルミネ7F「ブリル飯店」。「また、横浜ルミネ!?」かつて23歳まで働いたルミネ最上階の店はないが、あまりに運命的だ。彼は、行動し続けることで現実を引き寄せた。

鈴木シェフ6

「東京で学んだモダンチャイニーズを横浜でやる!そして、横浜No.1中華を目指す!」中華料理であまり使わない春鰹(かつお)金目鯛、白エビ、ホタルイカなどを取り入れて創作料理に日々励んでいる。中国調理の伝統を尊重しながらも、今まで学んだ和食を含めた様々な料理テクニックで素材の味を引き立てている。そんな彼が10年後、20年後、「どこで店を開くのか?どんな料理を出すのか?」明確にイメージできている夢を語った。「必ず成功する!」と言い切る鈴木シェフの目力、凄かった。その夢は、voicyを聴いてほしい。「料理番組のシェフもできるんじゃないか」ってくらい話し上手で彼の話に引き込まれた9日間の放送だった。

鈴木シェフ4

今度はてつはると3人で横浜「野毛」で一杯やろうよ。そして家族で「ブリル飯店」に行くね。俺も10年後、20年後の夢ができたよ。鈴木シェフの店、てつはると行くよ。俺も長生きしなきゃ!

 オーナーは小学校しか出てらっしゃらないはずです。
 勉強熱心な方ですから 幅広い見識をお持ちで
 多くの学者さんとも交流がある。だからフォンターナは
 一流の文化人や芸術家が集うサロンにもなっています。
 文化や芸術って料理と関係あるんですか?
 「料理人は料理さえできればいいは駄目」。
 というのがオーナーの持論。
 地理 歴史 哲学 美術 文学から科学まで幅広い知識と
 視野が必要だと常々おっしゃっています。
 もちろん この私も まだまだです。(by 料理長)
  NHK連続テレビ小説『ちむどんどん』より


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