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「後ろ姿で時代の先へ!ミニマム/生業/半農/ローカル 髙坂勝」

 やっぱり発酵の現場で大事なのは
 待つこと、よく聞くこと、委ねること
 発酵デザイナー 小倉ヒラク
 NHK Eテレ『SWITCHインタビュー 達人達』より

高坂勝さんと2008年に会って以来、14年ぶりにZOOMで再会しvoicyラジオで対談した。高坂さんの2冊の本、「減速して生きる―ダウンシフターズ」「次の時代を、先に生きる。」を収録当日、朝まで読んで対談した。

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本に書いてあるトピックはもちろん、書いていない幼少時代やORGANIC BARを閉じた2018年以降、「今」何を考え、どんな活動をしているのかにフォーカスして対談したかったからだ。尖がってることを言っているのに丸みを感じる心地良いトークにワクワクして何度でも聴きたくなる放送になった。そんな高坂さんとのラジオ対談、1回10分、全6回、フォローして聴いてほしい。

前半1回目から3回目の放送!

「もっともっと」と、月収200万稼いで会社を創業してから我武者羅に売上・利益・集客など数を追ってた時期があったが、その頃の俺だったら高坂さんと話がかみ合わなかったように思う。20年以上経営した後半、数を追えば追うほど逆に業績は悪化し、大切にしていた顧客(隊員)との信頼関係が崩れて会社を手放すことになった。今は何事も量より質、大きくより小さく、広くより狭く、浅くより深くを追求しているから、ちょうど良いタイミングで話せた。この回り道にはきっと意味がある。14年ぶりに再会するきっかけをつくってくれた中村あっちゃん、ありがとう。あっちゃんがつくった「暮らしの藝術大学」「くるまざダイアログ大学」で高坂さんと共に講師・特任教授を務めることになったのだ。

高坂さんとの出会いは14年前。当時は旅を終えると隊員(参加者)同士の親睦を深めるため、「写真交換会」という名の飲み会をしていた。「どうしても隊長に紹介したい素敵な人と店があるので飲み会の場所は僕が決めていいですか?」と、伊豆大島・裏砂漠でMTBに参加した隊員あずみん。今でも仲の良い2人あずみん、つよぽんたち隊員を引き連れていった店が高坂さんが営んでいたORGANIC BAR、「たまにはTSUKIでも眺めましょ」だったのだ。その後、高坂さんが俺の著書「感動が共感に変わる!」を読んでくれて東京・新宿の旅オフィスを訪ねてくれたのが縁。

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高坂さんは2000年、30歳になるまで7年間、サラリーマンをしていた。「このままでは自分が壊れる」とウツ寸前までいって仕事を辞めて日本中、世界中を旅した。そして2004年からORGANIC BAR、「たまにはTSUKIでも眺めましょ」を開いた。「世知辛い世の中だけど、たまには月でも眺めながら、心にゆとりを持って人に優しく生きようよ。」そんな思いから、経済至上主義から脱却し、必要以上に儲けないビジネスモデルをつくる決断をした。彼のライフスタイルは実にユニークなものだった。売上が上がると、週休2日から3日にして人気メニューをやめ、ウイスキー、ウォッカ、ジンなど無くして酒のメニューまで減らした。BARなのに、置いてあるのはビール、ワイン、日本酒だけ。週休3日にすると、NHK、TBS、日テレなどテレビ局の取材が殺到。さらに、「オリンピック開催する2020年前にお店を閉じます!」と宣言をするとお客さんが増え、週休2日に戻すと、売上は3倍になった。「売上はいつでも増やせる」と確信した。ミッションは「たった一人でどこまで世界を変えられるか」。夢も希望もないフリーターを当時の総理大臣とカウンターで隣り合わせに座らせたりもした。「じゃー次はオバマかトランプか・・・違うなぁ、そんなことがやりたいんじゃない」。東京と千葉の2拠点生活から店を閉じて千葉県匝瑳市に移住、米作りを始めNPO SOSA PROJECT を立ち上げた。サラリーマン時代の年収は600万円。BARを営んで年収を300万円に減らし、さらに今、年収150万円でも幸せに暮らし貯金もできる生活をしている。彼は会社を辞めて20年かけて年収を1/4まで減らした。それが高坂さんにとっては本当のキャリアアップだったのだ。彼はお金に換えられない資産をたくさん持っている。お金は大好きだけど、やりたくない仕事はしない。「楽しいかどうか」が仕事をする基準なのだ。

高坂さんの生き方を慕って自然と人が集まった。米作り、リノベーション、移住あっせん、自宅の民泊、執筆、大学の非常勤講師・・・いくつもやってる生業も社会貢献、地域の問題を一緒に考えて問題解決していく姿勢が美しい。やっぱり「やり方」より「あり方」だ。手法には正解はないが、姿勢には正解があるように思う。彼は対話のない対立や分断社会にあって、対話して人と繋がる循環型社会・共生社会・分かち合う社会の一翼を担っている。

そんな高坂さんの幼少時代に遡る。いじめられっ子だった「悲惨な少年」時代を語ってくれた。幼稚園の頃で憶えているのは、おしっこ漏らしたことと鼻垂れてたことだけ。小学生の頃、好きだった女の子に「おまえ、頬ずりしろ!」と言われてやった屈辱をはっきりと体に刻み込んだ。そんな彼が変わるきっかけは些細なことだった。「高坂くん、授業中おしゃべりするな。校庭10周!」と先生に怒られた。彼は人生で初めて怒られ、「存在を認められた」って嬉しかったという。この幼少時代を聞いて、高坂さんに弱さを見せられる強さを感じた。自分の強さだけでなく、弱さを受け入れられてるから話せることだから。誰もが弱みを強みに変えられる。あの松士幸之助でさえ、病弱だったからこそ、病気になったことを受け入れて病気と仲良くつきあい、「経営の神様」と言われるようになったのだ。

中学時代、団体競技から剣道を始めた。司馬遼太郎(著)「竜馬がゆく」を読んで「世の中を壊すのではなく良くする。時代を変えていく一人になりたい。」と自分の命の使い方を考えた。そういえば新しい時代を創った坂本龍馬もいつまでも泣き虫で寝小便をするような少年だったと思い出した。

高坂さんは祖父や祖母から厳しい戦争体験を子守歌のように聞かされて育ったから、「戦争のない時代にしよう!」と思った。吊るされた鳥、乱立する高層ビルを見て疑問を持ったことが、環境問題を考えるルーツだった。人は様々な影響を受けるが、若い頃、何を読むか?身近な人の話を自分事として聞くことができるか?が大事だと改めて思えた。

高校から大学時代、中間グループにいた高坂さんは、不良グループにも真面目なグループにもシンパシーを感じ、人と人を繋げていく存在となる。エリッククラプトン、柳ジョージなどブルースが好きだった彼は、ミュージシャンの付き人も経験するが音楽業界の裏側を見て嫌気がさし普通のサラリーマンとなった。頭角を現した彼は出世するも、「前年対比10%成長」を掲げる組織の一員として、個人プレーからチームを任されるようになり精神的に追い込まれていく。「このままじゃ死んじゃう!」そこで会社を辞めて、自分のペースで運営するORGANIC BAR、「たまにはTSUKIでも眺めましょ」を2004年から2018年まで営んだ。

後半、4回目から6回目の放送!

4回目の放送内容は、「経済成長神話を壊したい!持続可能な社会にしないと自殺や鬱が増える。人が幸せに生きていくために世直しする。必要以上に儲けなくても幸せになれる」。それを証明するように、実生活で仮説を立て検証していく。断捨離をして物を手放し、本当に必要なものだけを残すミニマリストの道を歩んでいった。世界の5割のサラリーマンが自分の仕事は社会にとって意味のない「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」だと思っている現状。そんな中、「あなたが、世の中をつくり変える小さな革命家になれる!あなたが誰かの希望になり見本となれる!」と、本を出版した。前述した2010年出版した、「減速して生きる―ダウンシフターズ」、2016年に出版した「次の時代を、先に生きる。」の2冊。ロングセラーとなって電子書籍化も文庫化もされている。今読んでも全く色褪せないどころか新しい価値観を提唱している、今読むべき本だと思う。

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「ミニマリスト」という言葉を世に広めた、『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』を書いた作家で編集者の佐々木典士(Sasaki Fumio)氏との出会いや高坂さんの2冊の本の内容に迫った。

そして、5回目には2018年にORGANIC BARをクローズしてからの4年を、そして6回目の最終回では今、一番伝えたいことを語ってもらった。「今まで人を地方に分散させてきたが、じゃー都会はどうする?都会の環境問題を解決する道とは?」大いなるビジョンを提示してくれた。

「幸せはなるものじゃなく気づくこと」そんなことをサラッと言う高坂さんと同じ舞台、「暮らしの藝術大学」「くるまざダイアログ大学」で共に成長できる喜び、再会に感謝にしながら、明るく元気に調子よく、俺たちにできる「社会変革・意識変革」を愉しくやっていきたい。

一人の力は微力かもしれない。でも無力じゃない。

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 腸活・菌活とクリエーティブはイコール。
 周りを腐らせるか
 周りのうま味を引き立てるか、
 っていうのが発酵と腐敗の大きな違いって
 本人というよりは周りの状態なんだって。
 俳優・映画監督 斎藤工
 NHK Eテレ『SWITCHインタビュー 達人達』より


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