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【眠らない猫と夜の魚】 第21話

「猫と魚」③


 小さな頃から、夜が好きだった。

 長い夜の中で、怖い話とかUFOの話とか、夜の中で起きる話を読むのが好きだった。お母さんは仕事で遅いから、夜はたいていひとりで過ごした。だから夜は、誰の干渉も受けない、誰の邪魔も入らない私だけの時間だった。灯りを落とした夜の部屋で布団に潜ると、屋根裏部屋に張ったテントの中にいるみたいに安心することができた。

 昼の世界は苦手だった。
 人の多さと音の多さは、夜に慣れた私を落ち着かなくさせた。私は昔から表立って意見を言うのが苦手で、ひとりで図書館にいるのが好きだった。小学校に入ったばかりのころはそれでよかったけど、学年があがると、グループとか、好き嫌いとか、持っているグッズの種類とか、色んなものを押しつけられるようになった。
 目立ってしまわないように、表面上はそうした押しつけを自然に受け入れた。でもやっぱり、それは私にとって辛いことで、昼の世界はどんどん息苦しくなっていった。

 だから、頭の中に夜を作った。

 頭の中に作った夜の中に幽霊やUFOを置いて、好きなものだけを詰め込んだ箱庭みたいに、私好みの夜を作り上げていった。昼間の太陽の下で辛いことがあったときは、意識だけをそこに歩かせて、こっそりと夜の空気を吸い込んだ。

 お母さんには心配をかけたくなかったから、昼の世界でも普通に振る舞うようにしていた。表面上はうまくできていたと思う。たまに嫌なことはあったけど、夜があるおかげで平気だった。


 四年生の夏。夏祭りの奉納演劇で巫女をやることになった。
 やりたくなかったけど、あんたがいいんじゃないのって、半ば無理やり押し付けられた。ひとりで行動することの多かった私は、そういうことをする生徒に目をつけられるようになっていた。
 演劇の最中に起こったことは、断片的にしか覚えていない。突然灯りが消えて、気がついたら森の中にいて、何かから逃げた。そしていつの間にか、逃げる自分の姿を空から見ていて、気がついたら神社に座っていた。
 お医者さんからは夢だと言われ、私もそうだと思った。

 その日から眠れなくなった。なぜか全然眠くならず、頭の中に何かがいるという妙な違和感がずっと続いた。その何かに眠りを食べられているような気がした。それに加えて、変なものを見るようになった。
 魚だ。
 魚は、気付いたときには教室の中を泳いでいた。誰にも見えていないようだったから黙っていたけど、ある日、魚に集られた級友が怪我をした。それが何度か続いて、危険なものであることを知った。
 なんとかしなくちゃ。そう思って魚に集られた人に声をかけたけど、逆に変な目で見られて、避けられるようになった。
 ある日、級友に囲まれて責められた。怪我が続いてるのは、私のせいだと信じているようだった。その最中に、教室の天井を渦巻く魚の群れを見た。私が叫ぶと同時に教室のガラスが割れ、たくさんの人が怪我をした。
 私は、学校に行かなくなった。

 学校に行かなくなっても、眠れない日は続いた。外の世界に出るのが怖くて部屋にこもっていると、小夜ちゃんが朱音さんや水鳥さんを連れて来てくれた。
 朱音さんたちの話す怖い話やUFOの話を聞いたりしているうちに、少しずつ眠れるようになった。やがて「夜歩き」が始まって、その話を朱音さんたちが聞きたがって、その話をしたり、逆に怖い話を聞きに行ったりするために、部屋を出てアボカドや朱音さんの家に行くようになった。あれほど怖かった昼の世界が、少しずつ、怖くなくなってきた。もう一度がんばれるかもって、そう勘違いしてしまった。

 でも、やっぱりだめだった。

 私の心はまた折られて、薄れかけていた昼の世界への恐怖が戻ってきた。こんな思いをするんだったら、もう二度と戻れなくていい。ずっと夜の中にいたいって思った。
 だから、こうなったのかもしれない。
 私の体はなくなってしまった。心の中でずっとそうしていたように、夜の空気の中に、実体もなくふわふわと浮かんでいるだけに存在になった。でもそれがどんなに安心できるものか、こうなって始めてわかった。

 ここでは、誰も何も押しつけてこない。
 痛い思いも、辛い思いはしなくていい。
 好きなだけ、夜の中を漂っていられる。

 今、私の回りには見えない壁がある。壁の中でじっとしているだけで、頭がぼうっとして、少しずついろんなことを忘れていく。頭に残っていたものがどんどん抜け落ちて、自分の名前すらも思い出せなくなってきた。
 でもそうなることが逆に心地よかった。このまま何もなくなってしまえば、夜の一部になれる。
 私は目を閉じて、見えない壁の中で背中を丸めた。


 ――。


 誰かの声が聞こえた気がした。

 見回したけど、ここには私しかいない。もし誰かがいるとしても私には関係ない。私はひとりで、ここにいるって決めたんだから。

 ――。

 また声が聞こえてきた。声は近くなったり遠くなったり、よくわからない場所から響いてくる。何度も聞いているうちに、だんだんと、心が落ち着かなくなってきた。

 この声を知っている気がした。

 そうだとしても……関係ない。私はここを出ない。ずっと夜の中にいるって決めたんだから。誰も私を傷つけない、優しい夜の中に。


 ……でも。

 夜って、こんなものだっけ。
 こんなに寂しいものだっけ。
 こんなに寒いものだっけ。

 こんなじゃなかった気がする。
 誰かが側にいてくれて、
 私のことを心配してくれて、
 怖い話をしてくれたり、
 お菓子を作ってくれたり。

 そんな夜の過ごし方を、誰かが教えてくれた気がする。
 そこでは、私はひとりじゃなかった。

 ……誰だっけ。

 夜の過ごし方を教えてくれたのは。
 夜の中で寄り添ってくれたのは。
 夜は寂しくないって教えてくれたのは。

 誰だっけ。
 誰だっけ。
 誰だっけ。

 名前が思い出せなくて、すごくもどかしい。必死に思い出そうとしていたら、いきなりぎゅっと、強い力で手を握られた。思わず振りほどこうとしたけど、その手は私を強く握って離してくれなかった。手を見ても何も見えない。でも確かに、誰かが私の手を握っている。
 優しくて、強い力で、私を繋ぎ止めて、絶対に離さない。

 知ってる。
 この手を、知ってる。

 ――!

 声が強くなった。
 声は私を呼んでいる。
 この声も、知ってる。

 手に引かれるままに、壁の向こうに手を伸ばした。

 その瞬間、体中の皮膚の表面を針で刺されたような痛みが走り抜けて、反射的に手を引っ込めた。冷や汗が頬を流れて、指先が細く震える。胸の奥には痛みの余韻が、ドクドクと、消えずに響いている。

 この痛みも知ってる。昼の世界で、何度も感じたことがある痛みだ。誰かに悪意をぶつけられたとき、胸の奥に差し込まれた棘みたいに消えずに残る、私の勇気を根こそぎ奪っていく、あの痛み。
 この壁の外に出たら、また誰かに傷つけられるかもしれない。またあの痛みが私を縛るかもしれない。

 それでも、会いたい。

 頭の片隅に浮かんだ名前を口にすると、胸の奥がぽっと暖かくなった。胸の痛みが、溶けるように消えていく。

 誰の名前だっけ。
 でも、とても大事な名前だった気がする。

 もう一度名前を呼びながら、手を握り返した。

 壁に触れる。
 心に痛みが走る。
 でも、今度は逃げなかった。
 手を握っていれば、耐えられる気がした。

 「――!」

 心に浮かんだ名前をお守り代わりに呟いて、
 私は、壁の向こうに手を伸ばした。


 *


 さっきから体のあちこちを赤い魚がひっきりなしに通り抜けていく。魚が通るたびに、束ねた針で刺されたような鋭い痛みが体中の皮膚を駆け抜けて、全身を痺れさせる。痛みで開いてしまいそうになる手を、もう一方の手でぎゅっと握った。その中にあるものを放してしまわないように。

 それが波流だと確信したわけじゃない。
 赤い空の世界を走り回って何個目かに見つけた魚の渦の中に、ふとその魚を見つけた。魚の渦の中心で、所在なさげに佇んでいる魚。今にも消えそうなその光は、弱っているときに不安定に揺れる、波流の瞳を思わせた。
 考える暇も惜しんで、魚に駆け寄って両手で掴んだ。もとよりそれっぽいものを見つけたら、片っ端からそうするつもりだった。気合いを入れたところで体力は減る一方だったし、その気合いすらも尽きかけていた。
 魚を掴んだ途端、周囲を渦巻いていた魚の群れが、餌を横取りされたようにいっせいに私に向かってきた。
 とっさに走って逃げたけど、そのうちの幾つかが私の足と胴体を通り抜けて、焼け付くような痛みを残した。胸の中心を通過した魚は、痛みとともに臓腑が裏返るような吐き気を残していった。

「…………ああっ、もう! くそっ!!」

 気合いか悪態かわからない声をあげて魚から逃げる。何かを叫んでいないと意識が途切れてしまいそうだった。でも辺りは完全に魚の群れに囲まれていて、通り抜けられそうな隙間は見当たらなかった。魚の群れは次々に私の体を通り抜けて、体力と気力をどんどん削っていった。何度か波流の名前を叫んだけど、手の中からは何の反応も返ってこなかった。そうしているうちに足がもつれて、草地の中のぶざまに転んだ。
 魚の群れが照準を合わせたようにいっせいに向かってくる。
 まずい、そう思って手のひらをお腹の中心に抱え込んで、背中を丸めたとき、誰かに名前を呼ばれたような気がした。

 同時に、手の中の魚が鈴のような音をたてて、弾けた。

 リィィィーーーーーーーーィィィィン…………

 衝撃で草原を転がった。集まってきていた魚たちは、音が響くのと同時にいっせいに逃げていった。
 音の余韻が消えてしまってからふらふらと体を起こすと、辺りには一匹の魚も見えなかった。手の中に納めていたはずの魚も見当たらない。
 その代わりに。

「……は?」

 目の前に、赤い光を帯びた半透明の猫が座っていた。
 質感的には、さっきまで握っていた魚に似ている。魚がそのまま、猫の形になったような……

「もしかして、波流……だったりする?」

 問いかけると、猫は丸い目で私を見た。
 次に自分の前足を見た。
 次に自分の尻尾を見た。
 次にもう一度私を見た。
 どうしよう、と言う顔に見えた。

「え? ホントに波流? え? なんで? ええー……どうすんの、これ……でも………………かわいいな、おい」

 私も困ったけど猫も困っているように見えた。近づいて指を差し出すと、猫はおずおずと鼻先を近づけて、なん、と情けない声で鳴いた。

 これはこれでかわいいけど、このままにしておくわけにはいかない。波流は、波流の体の中に戻さなくちゃ。そのためには、波流の体を奪っている猫を探す必要がある。魚の群れを追いかけているうちに、猫のいそうな場所にひとつだけ心当たりができた。

 猫は地蔵の欠片のある場所に行く。地蔵の欠片がある場所には怪異が起きるからだ。そして夜見神社の他に、もうひとつ怪異の起きる可能性のある場所があった。
 今日道場から戻ってきた小夜は、こう言っていた。

「うん、怒りすぎて疲れた。そのせいか道場でなんか変なの見たし……。波流を見ながら、ちょっと休むわ」

 猫は言っていた。もうひとつ欠片を回収する場所があると。その場所が道場なら、波流の体は今、道場にいる。見当違いの可能性もあるけど、怪異を引き寄せる小夜を信じるしかない。

「……波流、おいで。いこう」

 手を差し出すと、猫の形をした波流は、にゃおん、と鳴いた。

(第22話に続く)


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