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【自分】の【文体】を振り返ってみる(第5回・完結)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ『【自分】の【文体】が辿った【経緯】』を振り返ってみております。
 『【小説】の【文体】としては【特殊】な【構成】を有している』という【自覚】はもちろんありますが、その【文体】にご興味をいただいたこともまた【事実】。

 ならば【文体】の【背景】にあるものを掘り起こしてみることにも、相応の【意義】はあろう――という、これは考えですね。

 で、執筆を始めた時点で抱えていた【悩み】、そのうち【文体】に関わるものはというと。

・【語り】(俗に言われる【地の文】)の語尾がパターン化しやすく、特に『~だ(だった)』、『~である(であった)』が【頻出】する。このため【文体】として【単調】に映りがち
・“日本語として【一般的】とされる【文章構成】”では、(【映像】を含む)【擬似体験】的な【脳内イメージ】が構築しにくい
・“【音】としての【文章】”の【完成度】を【追求】し始めると、さらに“【日本語】として【一般的】とされる【文章構成】”の【制約】が厳しく感じられる

 ……などなど。

 これを受けて私が採った方策は、『【自分】で【ダサい】と思った【表現】は【封印】する』というものです。要は『~だ』と『~である』を【自作】から【排除】するわけですね。他にも『~をする』とか。

 実はこれ、一文単位で【工夫】を強いられるわけで。つまり頭は常時フル回転ということに。とんでもない【荒行】になった――と始めてから思い知るという【猪突猛進】と【七転八倒】。←をい

 そこで、私がどういう【工夫】を思い付いたかと申せば。
 【荒行】と腹を括って開き直り、そもそもの【定石】から離れてみる――というものです。

 もちろんそのためには、【自分】なりに【原理原則】を【認識】する【必要】があるわけで。
 私は【創作】の【目的】の中に『“【趣味嗜好】の近しい人”を巻き込んで、ともに楽しむこと』を掲げるわけですから、つまり『“【理解】しやすい【表現】”というものを、【自分】なりに【開拓】しなければならない』ということになります。

 前回はこの辺りについて、お話ししてみました。

 この【命題】のヒントを、私は【映像表現】に求めたわけですが。

 振り返ってみれば、“【観客】としての【自分】”の【感覚】を通じて、私はここで“【認識】の【過程】”を学んだことになります。
 この“【認識】の【過程】”、“【理解】しやすさ”というものを捉える上で大いに役立ったことになりますね。

 では――と【文体】の話へ行く前に。
 私はここまでの【過程】で、【映像表現】からさらに【学び】をいただくことになりました。その【学び】が【文体】のみならず、【描写】全般に通じる巨大なヒントになったものと、私は【自覚】しております。

 今回はこの【学び】から【文体】を【構築】していくまでのところをお話ししましょう。

 ◇

 実はこの【時点】から、私の中には『“不出来な【映像表現】”に対する【忌避感】』が育まれることになります。“良さそうな【映像表現】”を【肯定】するからには、当然のように【反動】が生まれるわけですね。

 私の場合、この【忌避感】は“(【自分】から観ても)面白みのない【構図】”のみならず、【大根芝居】にも向くことになります。なので例えば“【登場人物】の【人格】に沿わない(【ご都合主義】的な)【言動】”も【忌避感】の対象ですし、“【登場人物】が【棒立ち】で長広舌を垂れ流す【芝居】”もまた同様です。

 これは裏を返せば、“【登場人物】の【芝居】”や“【物語】の中で起こる【現象】の【再現度】”についても【審美眼】が厳しく向くことを【意味】します。ただしこれ、【結果】として『“【文章表現】の【対象】となる【現象】全般”に磨きをかける【姿勢】』に繋がっていった【自覚】はあります。もちろんこれは【楽】ではありませんが、“【物語】の【上質さ】”を【追求】する上ではプラスに働くものと、私は今なお信じてやまないところです。

 さて、“【自分】なりに描こうとする【脳内イメージ】”には随時磨きをかけていくとして。
 【小説】としては、この【脳内イメージ】を【文章表現】に【エンコード】していくことになります。ただし“【理解】の【過程】”として、“【映像】における【認識】のルート”をなぞるように。
 すると、自ずと“【認識】の【順序】”に光が当たることになります。【対象】然り、その【状態】や【動き】も然り。

 これ、取りも直さず『【文章】内における【単語】の【配置】を、“【認識】の【順序】”に【合致】させること』に【直結】します。
 この時点で“【日本語】として【一般的】とされる【文章構成】”を【堅守】する【必要性】は、改めて吹き飛ぶことになりますね。『【主語】を文頭に、【述語】を文末に【配置】せねばならない』という【固定観念】に囚われていたら、それこそ『“【認識】の【順序】“を【文章】で【再現】する』ことが【絶望的】になりかねません。私が求めるのは『“【脳内イメージ】を【再現】する”上で、“【日本語】として【理解】されやすい【文章表現】”』なのであって、『【定型】に収まった【文章表現】』ではないのですから。

 このような【背景】を踏まえるに、『【単語】を【認識】の順に【配置】すること”は極めて重い【命題】です。ではそういう【文章表現】はないのか、と言えば。
 ありました――【実況】です。また【講談】にしても【落語】にしても、“【言葉】で【現象】を【実況】する【思想】”がほぼ【根幹】にありますね。要は『“【認識】の【順序】”を重んじる“【言葉】の【表現】”には、【日本語】として相応の【実績】が【存在】する』というわけです。

 よって【脳内イメージ】の【言語化】には、【実況】から範をいただくことができるわけです。また【講談】にしても【落語】にしても、【言葉選び】や【言葉運び】の上で“【技巧】に基づく【美】”が感じられます。この点でも“【日本語】としての【価値】”を【追求】することができるわけで、つまり『“【文章表現】として【鍛錬】すべき【方向性】”については、これでまず大外れはない』ということになります。

 という【方向性】を得て、今の私の【文体】は【現在】に至るわけですね。
 七転八倒大いに結構。その【苦闘】そのものがあってこそ得られるものは、間違いなく【存在】するというわけです。

 【表現】は移り変わるものですから、(これまでの【潮流】には【敬意】を払うとして)全く変えてはいけないわけではありません。そも【現代】で【主流】になった【表現】にしてからが、『【成立当初】は「こんなの~じゃない」とされる【前衛的表現】だった』わけです。ならば「こんなの~じゃない」という【反発】は怯えるに値しません。むしろ『その【反発】そのものが、かつて「こんなの~じゃない」と【反発】されながらも【表現】を【開拓】してきた【偉大な先人たち】に対する【侮辱】ですらある』ということになります。

 そんなわけで、私の場合は『【挑戦】こそ至高』とする【信条】ともども【文体】も【成立】している、というお話でした。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(マガジン)


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