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【自己満足】と【シラケ性】(第4回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ以下のような【心の声】について考えております。

『それって単なる【自己満足】じゃない?』

 この【心の声】、私は【シラケ性】と称しております。要は『何事に対してもノレない、醒めた【心理】』というところ。【自己満足】とともに、【ニュアンス】としては必ずしもいい【印象】と結び付いてはおりません。
 ですが、【絶対悪】というわけでもありません。さらには【作者】としての【自分】の【心理】に湧き上がってくるものでもあります。

 ならば、ものは使いよう。
 実は【シラケ性】は、【自分自身】を【俯瞰】、【検証】する役に立てることが【可能】です。また【自己満足】は【他者満足】と【両立】させて【Win-Win】に持ち込めばいい話。
 つまり接し方次第、やり方次第というわけですね。

 前回はここから【発展】させて、【具体】へと【考察】を巡らせてみました。

 【自分】の【シラケ性】と向き合うには、【反論】を用意するのが大変【有効】です。ただし、【反論】自体は【論理】でかつ【厳選】するのが望ましいところです。
 実は【安易】や【短絡】で【ゴリ押し】に走る、“【好評価】を【観客】から【強奪】する【姿勢】”は、【逆】に【自分】と【観客】の【シラケ性】を【誘発】する【結果】を招きますので。

 ということで、今回は望ましい【姿勢】、つまり“【観客】の【心理】に向き合う【姿勢】”について掘り下げてみましょう。

 ◇

○【考察】:【観客】の【心理】に向き合う【姿勢】

 さて、ここで話は『【自己満足】と【他者満足】の【共存】』に【合流】します。
 “【観客】の【心理】に向き合う【姿勢】”となれば【他者満足】を考えないわけにはいきませんから。

 で、ここで【他者満足】を考えるからには。
 【我流】では、欠かせないものがあります。それが“【相手】を【人格】として【尊重】する【姿勢】”です。

 【具体例】を挙げるなら、『【人格】の持つ【心理】はその人一人だけのものと認めて、「【他人】(この場合は【作者】)が思い通りに操ろうとしてはならない」とする【姿勢】』がその一つに当たります。
 つまり『【作者】が【短絡的】に【意図】を【ゴリ押し】するほど、望ましい【結果】は遠ざかる』という【教訓】は、より強いことになりますね。

 ここで、私が【予想】する【反感】があります。

「じゃあ、どうやったら“【作者】の【意図】する【心理】”を【観客】に抱かせられるのさ?」

 【我流】で【指摘】するのは、この【反感】こそ『【観客】を【人格】として【尊重】“しない”【姿勢】、その【悪例】』ということです。こうやって“【相手】(=【観客】)の【心理】を思い通りに操ろうとする【姿勢】”こそが、【観客】の【反発】を呼び【シラケ性】を招く――と、【我流】では考えております。

 「なら、一体どうすれば?」と途方に暮れる向きもありましょう。どうやれば“【シラケ性】に対する【反論】”を【用意】などできるのか――と。

 ここで、私は“【シラケ性】に対する【反論】”という【表現】を用いています。
 【反論】は【論理】です。即ち【論理的】であることが【必須】です。ここで【反発】という【表現】を用いなかったのは、『【反発】には【情動】が含まれて、【論理】から外れかねないから』という【意図】を込めてのことです。

 という考えの【背景】にあるのは、こういうことです。
 実は“「こう思って!」と【ゴリ押し】する【作者】の【姿勢】”というものにあっては、【作者】は【情動】に【支配】されているわけです。
 この【姿勢】が【シラケ性】を招くと考えているからには、私はこうも考えます――『少なくとも“【観客】の【人格】を【尊重】する【論理】”なくして、【シラケ性】に【対抗】することは【困難】を極める』と。
 また【論理】によらない【反発】は、単に【感情任せ】の【水掛け論】にしかなりません。ましてや『【観客】は【論破】や【威圧】の【結果】として従わせるもの“ではない”』という【事実】もあります。ならば【情動】の【支配】を含む【ゴリ押し】は、『【シラケ性】を【論理的】に【回避】しつつ、【共感】を誘う』上で【マイナス要素】でしかないでしょう。

 では、【救い】は――というと。
 改めて申しますが、私は“【シラケ性】に対する【反論】”と【表現】しました。つまりは【論理】こそが【救い】となり得る――と、私は考えているわけです。

 もちろんこの【反論】が【論理的】であるからには、【論理的】な【根拠】が欠かせません。
 さらにここで【論理的】というからには、【観客】の【心理】に頼り切るわけにもいきません。
 ただし【論理的】であれば、“【自分】の【シラケ性】”のみならず“【観客】の【シラケ性】”に対しても、“【論理的】な【反論】の【根拠】”が【用意】できることになります。『【観客】の皆さん、どうぞお好きなように感じて下さい。“【作者】としての【自分】”が【確信】する【良さ】は、【論理的】に揺るぎませんから』というわけですね。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 【他者満足】も含め、“【シラケ性】に対する【反論】”として【必要】なのは“【観客】を【人格】として【尊重】する【姿勢】”です。【人格】を【尊重】されずして【満足】は生まれませんから。

 【ゴリ押し】は【作者】の【情動】から生まれます。【情動】は【論理】たり得ず、従って“【シラケ性】に対する【反論】”にもなり得ません。【反論】であるためには、【論理】であることが【必須】です。

 【論理的】な【根拠】を持ち、かつ【観客】の【人格】と【心理】を【尊重】した上で「どうぞお好きなように感じて下さい。【作者】が【確信】する【良さ】は、【論理的】に揺るぎませんから」というわけです。

 では、どうやって――という点については、次回にお話しいたしましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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