【自己満足】と【シラケ性】(第6回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、ここのところ以下のような【心の声】について考えております。
『それって単なる【自己満足】じゃない?』
この【心の声】、私は【シラケ性】と称しております。要は『何事に対してもノレない、醒めた【心理】』というところ。【自己満足】とともに、【ニュアンス】としては必ずしもいい【印象】と結び付いてはおりません。
ですが、【絶対悪】というわけでもありません。さらには【作者】としての【自分】の【心理】に湧き上がってくるものでもあります。
ならば、ものは使いよう。
実は【シラケ性】は、【自分自身】を【俯瞰】、【検証】する役に立てることが【可能】です。また【自己満足】は【他者満足】と【両立】させて【Win-Win】に持ち込めばいい話。
つまり接し方次第、やり方次第というわけですね。
【自分】の【シラケ性】と向き合うには、【反論】を用意するのが大変【有効】です。ただし、【反論】自体は【論理】でかつ【厳選】するのが望ましいところです。
実は【安易】や【短絡】で【ゴリ押し】に走る、“【好評価】を【観客】から【強奪】する【姿勢】”は、【逆】に【自分】と【観客】の【シラケ性】を【誘発】する【結果】を招きますので。
【他者満足】も含め、“【シラケ性】に対する【反論】”として【必要】なのは“【観客】を【人格】として【尊重】する【姿勢】”です。【人格】を【尊重】されずして【満足】は生まれませんから。
では、どうやって――という点について、前回はお話しいたしました。
【現実】に【他人】の【心理】をどう感じ取るか――と考えてみれば、実は『【他人】の【情動】は、【論理的事実群】やその【流れ】から、その【背景】として読み取るしかない』と判ります。
つまり【現実】を模する形であれば、『【論理】を用いた【間接表現】として【情動】を表すことは【可能】』なわけです。
これは【文章】という【論理的表現】で、【心理】や【情動】に【影響】を受けたことがあれば、その【事実】こそが動かぬ【証拠】ということになりますね。
今回は、こういった【論理的表現】と【心理】の間にある【関係性】を掘り下げてみましょう。
◇
○【考察】:【心理】や【情動】に訴える【表現】
以上の【考察】から言えるのは、つまりこういうことです。
【文章】をはじめとする【表現】は、言うなれば『“【心理】や【情動】を表したり、【心理】や【情動】に訴えたりする【表現】”を【論理】に【エンコード(暗号化)】したもの』なわけです。この【表現】を【デコード(複号)】して【心理】に照らし合わせるのは【観客】です。なので『【観客】の【デコード(複号)能力】に頼らなければ、“【心理】や【情動】を表す【表現】”も、“【心理】や【情動】に訴える【表現】”も、【完成しない】』ということになります。
ならば、【観客】の【デコード(複号)能力】を【最大限】に【活用】するのが、【心理】に関する上ではより【確実】というもの。
ただし【多様性】に基づき、【観客】は【個性】を持ちます。つまり『【観客】の【デコード(複号)方法】や【デコード(複号)能力】については、【多種多様】で【決め打ち】できない』ことになります。
「それじゃ【観客】の【心理】を【特定】できない!」という【焦り】は、私としては【予想】のうちです。
そも『【他者】の【心理】を思い通りに操ろうとしてはならない』と掲げる以上、私がここで向き合うべきと考えるのは、そのような【焦り】ではありません。
私が向き合うべきと考えるのは、【現実】の中に実際に【存在】する【現象】です。
【観客】の【心理】を【観客自身】に任せた上で、なおかつ『【観客自身】が【表現】を自ら【デコード(複号)】しようとする【現象】』というものが、【現実】に【存在】するのです。
それを【証明】するのが、“【筋書き】のない【ドラマ】”という【概念】です。
つまり『【観客】は“【自然法則】という【論理】”からなる【現実】の中から、“【ドラマ】という【情動】の【流れ】を見出す【能力】(=【デコード(複号)能力】)”を(【個性】に応じて)持っている』というわけなのです。
もちろん【個性】によっては、この【能力】や【適性】を持たない場合もあります。ただ前述したように、そういう【個性】の持ち主はそもそも『【小説】のように、“【言語】をはじめとする【論理】で【心理】に関わる【表現】”に【関心】を抱かない』ものです。なので『【作者】の【対応】としては、“【筋書き】のない【ドラマ】”に【適性】を持たない人々については、“【観客】として【認識】する【対象】”に入れなければいい』というだけの話。
『来る者は拒まず、去る者は追わず』の諺が示す通り、振り向かない人を振り向かせようとするのは【徒労】というものです。振り向いてくれる人に、あるいは少なくとも振り向いてくれる【可能性】を持つ人に、向き合うのが【建設的】でありましょう。
となれば、『【現実】から“【筋書き】のない【ドラマ】”を【デコード(複号)】する【能力】』というものを【最大限】に【活用】するのが、“【観客】の【心理】や【情動】に訴える”には最も【確実】というものです。
裏返せば、【作者】として磨くべきものとして『【現実】の中から“【筋書き】のない【ドラマ】”を見出す(【デコード(複号)】する)【能力】』は極めて【重要】ということにもなりますね。【作者自身】が【デコード(複号)】できないものを【観客】に【デコード(複号)】しろ、というのは【身勝手】な【主張】というものですから。
よって『【現実】の中に、“【筋書き】のない【ドラマ】”がどのように【存在】しているか』を【観察】し、その【パターン】を【学習】し、さらにその【パターン】を【蓄積】していくのは、【作者】として極めて【意義】深い【鍛錬】』ということになりましょう。
と、“【心理】や【情動】に関わる【表現】”に対する向き合い方を踏まえた上で。ここから【シラケ性】について踏み込んでみましょう。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
【文章表現】は“【文章】という【論理】の【並び】に【情動】えーを【エンコード(暗号化)】したもの”です。ここから【観客】が【情動】を読み取るのは、言うなれば“【文章】という【論理的事実群】から【情動】を【デコード(復号)】する【工程】”ということになりますね。
実は【現実】でも、“【筋書き】のない【ドラマ】”が見出される【傾向】というものが【存在】します。
ここでは“【現実】という【論理的事実群】から【ドラマ】という【情動】の源を読み取る【現象】”が起きているわけですが、つまりこれは『【観客】の多くが“【情動】を【デコード(復号)】する【能力】”を持っている』ということを【意味】するわけです。ならば【作者】としてもこの【能力】は、大いに磨いて【研究】もする【価値】のあるもの、ということになりますね。
というところで、次回はここから【シラケ性】へと踏み込んでお話ししてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。
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